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第2章1話

 レジュメを投影していたスクリーンが上がり、教壇のマイクの電源が落とされる。教室はすぐにざわめき出し、次々に席を立つ後姿を、大教室の最後列からは一望することができる。開始数分後、つまり遅刻して教室に入ったので、水兎が座っているのは最後列の中でも入り口に最も近い右端の席だ。いつまで座っている趣味はない、ノートとペンケースをリュックに突っ込むと、周囲と同じようにさっさと教室を出た。  今年最後の授業が終わったのは自分だけではなく、何となく浮ついた雰囲気。本館を出て中庭を突っ切り、大学会館に向かう。会館一階は多目的ホールで、二階がカフェテリアになっている。学生協の食堂は別棟にあるのだが、営業時間がランチタイムの二時間程度に限られているから、四限を終えて利用できるのは大学会館のカフェテリアしかないのだ。階段を上りきると、喫煙コーナーの方から声が掛かる。 「栄倉」  振り返ると、友人が煙草を挟んだ片手を挙げていた。先に自販機の前に行き、紙コップのカフェオレを買ってから彼の隣に座る。 「おつ」 「おつでーす。栄倉、まだ授業残ってる?」 「や、もう終わった。お前は?」 「終わった終わった。これでやっと冬休みだな」 「スノボしかやらない冬休みね」 「しかって。だって短いじゃん、冬休み」  何箇所行くかは聞いたけど忘れた。その内の一箇所は、水兎も行くことになっている。明日にはまた、彼を含む友人達と顔を合わせることになるのだから、特別感慨は湧かない。灰皿やスツールが立ち並んでいるものの特にパーテーションがあるわけでもなく、用を成しているのか、換気扇が回っているだけの喫煙コーナー。目の前の煙を手で払って、友人が苦笑気味に笑った。 「まあ、スノボは置いといて。祝・冬休みってことで、今日呑み会やるんだけどさ。お前も来てくんねーかな」  妙な低姿勢で、こちらを見上げてくる。この上目遣いはそれが純粋な呑み会ではないことを示唆していると、経験に裏付けられた直感がひらめく。呑み会という名の、合コン。水兎は熱いカフェオレを啜って、すげなく断った。 「行かねー」 「…えーくらー。なっ、頼むよ」  一瞬あてが外れたような顔をしたものの、簡単には諦めない。食い下がる男に、さらにすげなく言ってやる。 「つーか。実力で挑めよ」 「うわー…」  物言いたそうな表情でそれだけ呟くと、彼は煙草を吸い込んだ。ふと、パーカーのポケットの中で携帯電話が震える。急いで取り出して開くと、届いたのは、冷たいくらい素っ気ないメールだった。残っていたカフェオレを飲み干して、席を立つ。 「じゃ。結果は明日聞く」 「えー、マジで帰っちゃうの?」  彼に手を振ってカフェテリアを出ると、水兎は上ってきたばかりの階段を駆け下りた。  本当は、授業が終わるのに合わせて迎えに来る約束だったんだけど。何が理由で遅れたのかは知らない。だってさっき、授業中に届いたメールも、遅れると一言告げるだけで無駄な文字なんてなかったもの。  夕刻に近く、外は寒い。ジッパーを上げ、フードを被り歩き出す。キャンパスは全国屈指の広大さで、構内を南北に公道が走っている。この広さを恨むことはよくあるが、急いでいる時のストレスといったらない。とりあえずバス停まで出てみたのだが、見える範囲で彼の車はどこにも横付けされていない。まだ着いてもないのに、着いただなんてメールを寄越したんだろうか?むっとした気分で携帯電話のボタンを押す。ワンコールしたかどうかで繋がって、水兎が何か言うより早く、相手の失笑が耳をくすぐった。 『ミト?お前どこにいんの?』 「こっちのセリフなんだけどー」  答えながらも車を探すが、やはり、ない。 「どこにいんの?」 『駐車場』 「は?」 『駐車場。外来じゃなくて、生徒用の方ね』  正解を残して、電話が切れる。つまり、今来た道を引き返した上まだ歩かなければならないということ。彼にとってもこの大学は母校なので、構内は勝手知ったるものなのだ。早歩きからだんだん小走りになる。学生用の駐車場に、ようやく車を見つけることができた。通りがかる生徒の視線がかなりの確率で、その車体に惹き付けられている。水兎は助手席のドアを開け、逃げ込むように乗り込んだ。 「なんで駐車場なんだよっ」 「なんで怒ってんだよ」  片頬を歪めて、信広が笑う。 「あり得ない。ちょー目立ってるこの車」 「あぁ、そう?」  国立イコール堅実という図式は必ずしも成立しないが、有名私立大のように金持ちの子供がゴロゴロしている学校でもない。ステータスにふさわしい高級外車が何台も停まっている教員用駐車場ならともかく、ここにこの車が停まっている限り、周囲の注目は避けられないだろう。 「ねー早く出して」 「へーへー…」  水兎のゴーサインに気のなさそうに返事をして、信広がエンジンキーを回す。そのままステアリングに添えられるかと思った手が、水兎に伸びて、頭を引き寄せられた。  次の瞬間の行為に名前をつけるなら、キス、で。  反射的に振り上げた手は、軽くかわされて、ペチッ、かする程度の弱々しい音しか鳴らなかった。 「さいっあく…」  TPOを考えろ。唇をこすり、信広を非難する。 「耳真っ赤」  ピアスを引っ張って揶揄ってくる男の脇腹を、今度は思い切り殴りつける。その衝撃もほとんどダウンに吸収されてしまったけど。 「いってーな」  言葉と裏腹な、半笑いの声色。車がゆっくりと動き出した。    ウィンドーに薄っすら映る自分が、ずっと唇を気にしてる。  中学生じゃあるまいし、って頭ではそんな自分に呆れてさえいるのに。付き合っているかいないかと言えば、いる、のほうに入ると思う。学校まで迎えに来てくれるし、そう、キスだってするし。  けど。する、けど、それだけ。 「まっすぐ送ればいい?」  信号待ちの間に吸い始めた煙草の煙が、四分の一くらい開けた窓から外に吸い出されていく。 「よくない。ノブヒロさん家行きたい」  まっすぐ家に帰るだけなら、地下鉄に乗ったほうが早い。わざわざ迎えに来たところでタクシー代わりにもならないことくらい、信広にだってわかっているだろう。 「来ても面白くないぜ?」 「行きたい」  だらりとステアリングに乗せられている片腕を引っ張り、懇願する。遠くを見るみたいに目を細めた信広は煙を吐くだけで、駄目だ、とは言わなかった。  彼は市街地にある高級マンションに、一人で住んでいる。塵ひとつないような清潔さと、雑誌の一ページみたいに完璧なコーディネート。住居として機能しているのはごく一部なのだろう、ハウスクリーニングだけが行き届いていて、どこか冷たい印象の部屋だと思う。  信広はキーリングを放り投げると、テーブルの上に無系統に散らばっている雑誌を寄せて、ノートパソコンを開けた。画面はすぐに、黒から青に変わる。適当に座れと言われたので、水兎は彼の隣に腰掛け、左腕にしなだれかかった。 「おい、邪魔」 「いいじゃん。右手空けてあげたんだから」 「お前なぁ」  左腕を上げて水兎を引き剥がそうとするので、その腕に腕を絡めてホールドする。先に折れたのは信広で、わざとらしいため息を吐きながら、空いた右手をマウスに乗せた。  モニターに、ある波形のグラフが複数現われる。  フリーターと呼べばなんとなく可愛げもあるが、実際は、もっと優雅な身分の男だ。一族として株主配当を受けていて、その一部を運用して株弄りをしているといったところ。このグラフがまさに、それを証明する形だった。  マウスを動かしたり、顎を掻いたり、傷んだ銀髪を捩ったり。わずかな身じろぎの度に、彼の肩口に押し付けた頬がこすられる。一応経済学部生だから、画面の中は全く無知の世界じゃないけど…無知じゃないからだろうか、始めて見る物に対するような純粋な興味も湧かず、却って退屈だった。十分…十五分くらいは我慢したかも。 「ねー…面白いの?」 「つまんなくはねぇな」  素っ気ない返事。視線はモニターにまっすぐ向けられていて、ちらりとでもこちらを見ようとしない。 「俺はつまんない」 「だから言ったろ、来ても面白くないって」  声音と、肩が、意地悪く震えている。確かにそう言われたけど、前もって言ったからって、水兎をそれに甘んじさせていい理由はない。信広の肩を押し遣り、プラグに手を伸ばす。水兎は、うっそり笑う横顔を睨みつけた。 「マジで。コンセント抜いてやる」  ふっ、鼻息混じりの失笑に、前髪をくすぐられて。 「抜けば?お前、ノートにはバッテリーあるって知ってる?」 「…ムカツク!」 「お前がバカなの」  にべもない言い草。もう一度信広の肩を押し遣って、立ち上がる。 「帰る」 「んー」 「帰る。って、言ってんだけど」  聞き流すような返事にむっとして、トーンを上げて繰り返す。信広はゆっくりと背もたれに反り返りながら、手の甲を水兎に向けた。 「じゃあな」  期待値に到底満たないせりふ。  手近にあったファッション誌を掴み、投げつける。ガードのために素早く振り上げた彼の腕に当たって、バサリと床に落ちた。 「嘘だよ、冗談だって。ミト?」  含み笑いで水兎の名前を呼び、手首を握るその意図が、もしかして今度こそ引き止めるものかもしれないと、思わなかったわけじゃないけど。 「嘘つく意味がわかんねーっ、帰る、じゃあね」  簡単な人間だと思われるのが癪で、信広の手を振り解いて部屋を出た。  エレベーターに乗った瞬間から、引き返したくなる。もちろん下りのエレベーターに乗っている限り、彼の部屋からはどんどん離れていくだけ…バカだ。  もう一回くらいキスしてからにすればよかった。

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