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第2章4話

 ビニール傘に、所有権なんてあってないようなものだ。傘立ての中から、自分の差して来たそれと似たような一本を引っ張り出す。止む気配のない雨に向かって傘を開き、会場を出た。成人式はまだ終わっていないが、終わるまで待つ意味がない。  ほんとうに、ひどく目覚めの悪い夢を見た気分だ。  目覚めた安堵より目覚めを疑う気持ちが強く、夢の中の錯覚が境界を越えて現実になだれてきそうな、あの感覚に似ている。  この街に戻ることは、少なくとも、決意の必要でないことではなかった。今まで帰らなかったのが何よりの証拠だ。嫌な思い出が多く、それにまつわる人々がたくさんいる場所。だけど今日のことは無駄にはならないはずという期待もどこかにあって、そうでなければ、例え新幹線と特急を乗り継いで二時間程度の土地であっても、戻ってなんか来れなかっただろう。  馬鹿馬鹿しい、一人芝居だった。  濡れたアスファルトのせいでも、重たい靴のせいでもなく、のろのろとしか歩けない。  早々に会場を出たものの、様変わりした駅前なんて興味は沸かないし、街をふらつく気にはなれなくて。水兎は神社の鳥居をくぐり、石段を登った。鬱蒼とした木に囲まれた本殿、木の階段はじっとりと湿っていたが、構わず尻を着く。皮肉だが、学校に行きたくなかった時…それから家に帰りたくなかった時、かつての自分が取った行動とまるきり同じだった。  暗くどんよりしている空が、さらに暗くなるのを待つ。目に見えていた雨粒が薄暗さに溶けて、音と存在感しか感じられなくなった頃、ようやくまた、立ち上がって傘を開く。裏から出るほうが早い。狭くて急な階段にやや足を取られながら、神社を出る。そこから二、三百メートルも歩けば家で、ドアを開けると、やっぱり母親が足早に出てくるのだった。 「お帰り。どうだった?」 「…んー」 「楽しかった?お友達だって皆スーツ着てたでしょ?私服なんて水兎だけじゃなかった?ほんと、男の子って、そういうとこ気が付かないんだから」 「うん」  質問とか確認とか述懐とか色々含んだ言葉に、まとめて一言それだけ返す。具体的に把握していることから、薄々勘付いていることまで、母親は決して無知ではないし鈍くもない。ちらりと寂しそうな顔をされたが、追求はされなかった。 「ねえ、泊まってくでしょ?」 「やっぱ帰る、学校始まるし」  月曜から大学が始まるのは本当だけど、授業はないから、どちらかと言うと嘘。水兎の答えは予想していたんだろう、すぐにこう言われる。 「一日くらい泊まっていって。運が良いんだから、水兎。もし今回帰省しないって頑固に言うようなら、今後学費も含めて一切援助しないって、お父さん言ってたのよ」 「え?」 「…脅しだと思うけど。ただね、そんなこと言い出すくらい、水兎に帰って来てほしかったんだから、お父さん」  リビングのドアからテレビの音が漏れ聞こえていて、時々、呑気な笑い声まで聞こえるけど。胸の中でため息を吐いて、水兎は頷いた。 「わかった…」    久しぶりすぎて、自分の家なのに勝手がわからない。部屋に引きこもっているはきっと妙だろう、リビングで何となく父親とテレビを眺めながら話すのだが、やがて話題も尽きて間が持たなくなる。今さら急に部屋に戻るのも不自然だし、なんて持て余しているうちに夕食になり、救われた気分でテーブルについた。やっぱ寿司なんだ…と桶を見て可笑しくなる。土地柄、魚介類はかなり旨いと思う。刺身を箸でめくりながら、急に、ここが故郷だったと実感が込み上げてくるから、やはり可笑しかった。普段手酌が好き、というか、誰かにお酌したりされたりするのは面倒だと思っている。父親相手にそうはいかず、ビールを注ぐと、注ぎ返されて、ホームドラマの親子みたいだった。  その後もやることがないので、テレビでぼんやり洋画を見る。断然字幕派の自分にとって、吹き替えの映画は興ざめしてしまうんだけど。半分も見ないうちに風呂に入るよう言われ、反抗してまで見るほどの作品には思えなかったので、大人しくソファーを降りた。  湯気の充満する個室で、やっと、一人になった。  身体と髪を洗い、湯船に足を入れる。脱力するように沈むと、胃のあたりが少し苦しかった。無理に全部食べたせいだろうか。両親に対して気を遣い過ぎたかもしれない。だけど無理にでもごまかしていないと、成人式の喧騒や臭い、向けられた表情投げかけられた言葉のことをすぐに考えてしまうんだもの。  水面下でゆらゆらと揺れる自分の腕を見る。  なんてゆうか、予兆はあって。  自分のことなんだけど、何かの意思みたいな感覚。左腕だけ丁寧に洗ったこととか、洗面台にある使い捨て剃刀を持ち込んだこととか、全部儀式だから。それに何より、昔から、風呂場ですることが多かった。  湯の中で影が揺れる。ややあって、淡い色が静かに広がる。  ザプッ、急に立ち上がったせいで湯船の中が激しく波打つ。 「最悪っ…」  怖いくらい冷静な頭とは裏腹の、ひどく狼狽えた声が出る。いや違う、一回、二回、チェーンを掴み損ねてやっと湯船の栓を抜く動作も焦っていて、頭だけが追いついていないんだ。タオルで左手首を押さえて、床や壁をシャワーで流す。血の一滴もついているわけないのに、とにかく流さなければいけないという思いは、強迫観念に近かった。左手首にタオルを巻いたまま身体を拭いて、着替え、使い捨てだというのに何度も剃刀を洗う。  胸に動悸を抱えたままリビングを覗くと、無人。どうやら父親は寝室に行ったらしい。奥の台所では、こちらに背を向けて母親が立っているのが見える。それを横目で確認しながら薬箱を開けて、消毒、ガーゼ、包帯を取り出す。 「――水兎?」 「俺、もう部屋行くけど」 「明日何時に起きるの?」 「一緒でいいよ、適当に起こして」  リビングに顔を出されないうちにそれだけ答えて、水兎は逃げるように階段を駆け上がった。  机の明かりだけ点けて、密事のように手当てをする。深く傷つけていたし、アルコールと風呂が原因で、出血も多い。最終的に残った血の着いたタオルをゴミ箱に捨てるわけにいかず、汚れた面を内側にしてたたみ、バッグの中に押し込んでしまう。  まるでサスペンスの犯人だった。  焦燥感が去ると、どっと無力感が広がる。  何やってんだろう。結局、ぶり返してるだけ。啓けるものなんてかった。再びバッグに手を入れて、中をあさったのは、無意識の癖で。理由もなく取り出した携帯電話をすぐには重要と感じられなかったが、それが一つのツールであることを思い出す。水兎は震える指でボタンを押し、祈るように耳に当てた。  ガリ、という雑音と、かすかな息遣い。 『お前のメモリも消えてんのかと思った』  第一声から、辛辣。 「ノブヒロさん」 『ま、結局電話してくんのな。お前俺に何か言うことねぇの?』  いつもの、揶揄うようで突き放すようなトーンに、水兎はただ彼の名前を繰り返した。 「ノブヒロさん」 『何だよ』 「かえりたい…」  ちゃんと言えたかわからない、途中で、涙声になってしまったから。 『帰ってくれば?』 「無理だよもう、終電間に合わない」 『まだ十時だっつうの。お前、どこにいんだよ』  冗談だと思われたんだろうか、信広が笑う。向こうでは零時過ぎても電車があって当然でも、その感覚はここでは通用しない。水兎が居場所を告げると、一瞬絶句したようだが、信広の返事は淡々としていた。 『何で急に実家なんだよ』 「急じゃねーよ、別に…成人式あったから」 『あぁ、そっか。で、帰りたいって?始発待てば?』  この言い方、わざとだ。だけど頭に来るほど偉そうな意地悪さだって、今、すごく恋しい。 「待てない。いたくない…帰りたいんだもん」  言い終わるまで耐えたけど。言い終わった瞬間、嗚咽になった。電話越しにきっと聞こえているだろうと思うと、余計、抑えきれなくなる。左手に巻いた包帯で頬を拭うと、薬箱の臭いが鼻をかすめた。 『ミト』  ため息交じりの呼びかけに、ぐす、鼻を啜って答える。 『車じゃさ、有料と高速飛ばして、最低でも二時間半はかかるんじゃねえの?』  深夜ということを見込めば、おそらく最短でそれくらい。うん、と反射的に計算して頷いた水兎に、信広があっさり言う。 『バカじゃなきゃ、始発待つぜ』 「バカだもん…」  わかってる。でも、帰りたいと口に出すくらいのこと、許してくれたっていいと思う。嗚咽の間から反発して、また、嗚咽に戻る。 『マジで。待てんの?』 「うるさい、待てないってゆってんの」 『そうじゃねえよ、バカ。今から行ってやったら、待てんの?』  右耳に吹き込まれた言葉は、願望がそうさせた幻聴だったのかもしれない。    ベッドの上で毛布をかぶり、膝を抱えている。  放せない携帯電話が、手の中で時々苦しそうな音を立てる。眠るわけでもなくただ膝に額を押し付けて、じっと、時間をやり過ごす。一時間、二時間…三時間にはまだならない。  チカ、着信音より一瞬早く、ライトが点く。 「もしもし…」 『ここどっちだ…西口だけど、来れんの?』 「ほんとにいるの?」 『嘘ついてどうすんだよ。来れんの来れないの』 「行ける…二十分くらい」 『早く来い。ガソリンもったいねえし、エンジン切ってっから。寒くて死ぬ』  ブツ。電話が切れる。水兎はベッドから飛び降りた。身支度は全部済んでいる。部屋を出て階段を駆け下り、廊下を引き返して両親の寝室を開ける。突然の物音に驚いたように、母親が身体を起こした。 「どうしたの?」 「お母さん、俺やっぱり帰る」  それだけ言って玄関に急ぐ水兎を、やはり慌てたように母親が追いかけてくる。 「何言ってるの?バカ言わないで、帰るってどうやって」 「迎えに来てもらった…えっと」  呆気に取られた顔を振り返り、少し迷って。 「…また、電話して」  精一杯言えるのがこれだなんて、ひどいと思うけど。彼女は片手で口を覆い、何かを受け入れるように沈黙した後、小さく数度頷いた。 「気をつけなさいよ」  外はまだ雨が降っている。ビニール傘を掴んで、水兎は走り出した。  すぐ息が上がり、少し走っては歩き、また、脇腹を押さえながら走る。  深夜の駅前は、飲食店の明かりと外灯だけがやたらに眩しく、ひっそりとしていた。ロータリーの遠くに停まっていた一台の車が、二、三度パッシングするのが見える。駆け寄ると車のドアが開き、威圧するような雰囲気の、長身の男が現れる。水兎は傘を持ったまま、ダウンの胴体に抱きついた。 「おい」  ばさりと落ちた水滴がかかったらしく、信広が嫌そうに身じろぐ。構わず顔をこすり付けると、傘を取り上げられた。 「…なんで、こんなことしてくれんの?」  柔らかい生地がまた動き、信広の腕が肩に回される。 「それくらいの動機にはなるんだぜ、お前って」  声が笑ってる。  水兎は胴から腕を放して、薄暗い中では色彩のはっきりしない彼の頭を引き寄せた。 「おい、ミト」  信広がちらりと横に視線を向ける。人通りはほとんどないが、ゼロではない。試すように細まる目を見つめて、水兎は言った。 「いいの。今さら地元のやつらにどう思われたって、落ちようないとこまで落ちてる」  ふっ、軽く吹き出した信広のピアスが、頬に刺さる。それから鼻先が触れ、唇が重なった。

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