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第2章3話
冬休み明けからスタートするテスト週間に備えて、勉強するって選択肢もあるけど。もし自分が補講期間より前から勉強するようなタイプの人間だったら、今頃もうちょっと単位に余裕があるだろう。何をするでもなく、学校が始まるまでの残りわずかな日数をカウントダウンするだけで、毎日が過ぎてしまう。スカパーでやってる、全然興味ない映画とか観ながら。
怒ってたし、めんどくさそうな顔してた。
ちゃんと付き合って、って当然の要求をしただけなのに。彼の返事は、それに対する承諾あるいは拒否のどちらかを含むものではなかった。何してくれんだよ、って、今までなら簡単だったのにな。相手の欲求なんて一つで、水兎にできることも一つだったから。そんなふうに、まともじゃない付き合い方しかしたことないから、信広に応えられないんだろうか。
自分が恨めしい。
他人より、きっと色々損してきたせいだと思う。
課題のレポートだったら、解ってなくても適当に展開して、なんとなくそれっぽい結論に導けば及第点だけど。答えも、答えの導き方さえ解らない。
携帯電話には何度も手が伸びるのだが、通話ボタンは押せない。もし信広のメモリのうち水兎の番号が復活していなかったらショックだし、そうだった場合名乗るところから始めなければならないなんて…笑えないし。
つい、というほど迂闊な状況じゃなかった。
部屋の電話を鳴らすのは親しかいないとわかっていて、受話器を取ったのだから。寂しい時、固定電話の着信音でも縋れる存在に変わる。用件はと言えば、変わり映えのないものだったが。一生に一度の成人式なんだから、久しぶりに帰って来ない?お友達も皆出るでしょう?水兎の反発を想定して、いつも通り必要以上に優しい、どこか遠慮がちな声。
友達だったこともあるやつならいるけど、友達なんかいない。
ショッキングなフレーズを直接口にするようなことはしないけど、事実、そう。水兎を輪から弾き、残酷な噂で孤立させ、誰も手を差し伸べてくれなかった。その中で少しずつ、自分は結晶したのだ。
本当は、信広に聞いてもらおうと思ってた。別に、何かを期待してたわけじゃなくて。成人式に出ろって言われてるんだけどって言ったら、何て答えてくれるかなって。
たぶん。この機会を逃したら、地元の友達…だったこともあるやつらと会うことはないだろう。もし帰れば何かが清算できるだろうか、変わるだろうか、なんて馬鹿馬鹿しいけど。電話を切る頃には、帰省の口約束を果たしていた。
実家のある県とは、一つ県を挟んで隣り合う距離にある。気軽に行き来できるほど近くはなかったが、実際のところ、途中まで新幹線で出て、北陸行きの特急に乗れば二時間かからず駅までたどり着いてしまう。将来新幹線が開通すれば、乗り換えもなくなるとか、ずっと言われている。帰るとなると気が重く、ずるずる出発を延ばしたので、結局は成人式当日に帰省することになった。
朝からみぞれ混じりの雨が、心模様のよう。
特急を降りて、コンコースから出ると、こちらでもやはり冷たい雨が降っていた。街は様変わりしている。そりゃ、二年あったら変わるだろう。工事中だった高架も完成していて、新しい商業施設も入っているらしい。日曜日だからか、雨にも関わらず人出が多い。駅前の広大な空き地もビルに変わっていて、県内数少ない繁華街と言われるのも恥ずかしかった寂れた駅前が、それなりの体裁になっていた。
傘の柄を握る手に、時折雨粒が落ちる。凍えそうな寒さだが、バスには乗らずに歩く。ここまで来ておきながら、来てしまったからだろう、現実味を帯びて、水兎をひるませている。神社の前を横切って、脇道に入ったところの住宅街。スチール門のある二階建ての家がそうだった。
門を開けて、ドアノブに手をかける。
ドアを開ける、それだけのことに、スリッパの音が足早に近づいてくる。
「水兎、お帰り」
二時間ぶりでも、二年ぶりでも、かける言葉は一緒みたい。自分の顔はかなりの割合母親似なのだと、久しぶりに見て思い出す。
「ただいま…」
口の中でぼそりと呟いて、水兎はバッグを下ろした。母親がリビングのドアを開け、お父さん、と呼びかけると、父親も顔を出す。特別厳しい父ではなく、久しぶりに帰省した息子に対して、二重顎の皺を深めるように頷いてみせる。二度目のお帰りとただいまが交わされ、母が明るい声を上げた。
「遅いから、お母さん電話しようと思ってたとこよ」
「あー、うん」
「お昼、電車の中で食べた?」
「食べてない」
「早く食べて行かなきゃ、遅れちゃう。案内状に、一時半からって書いてあったもの」
「だいじょぶだって」
根拠はないがそう答え、階段を上る。自室のドアを開けてバッグを放り投げると、後れて上ってきた母親が戸口から顔を出した。
「スーツ持ってきた?」
「いいよ、このままで」
「やだ、やっぱり。お父さんのだったらあるけど…」
「いいって」
服も靴もほとんど黒で統一してある。アクセもシルバーだし、フォーマルではないがじゅうぶんだろう。まるっきり体格の違う父親のスーツを着るよりは、マシ。再び一階に下りて、急かされるようにパンを齧る。
「ねえ水兎、お母さん送ってってあげようか?」
「いい、マジ、勘弁して」
悪気のない発言をとこさらきつく非難することもできず、申し入れを断り、水兎は会場に向かった。
県庁の裏手、市役所と挟まれたような位置にあるホールで、ルートは違うが方向としては、駅方面にまた戻る感じになる。到着は、一時半開始の式典には堂々と遅れる時刻だった。外は閑散というくらい人通りがなく静かだったのに、ビニール傘を置いて会場に入ると、中は喧騒で溢れている。一瞬驚き、プログラムを思い出して納得する。第一部の市長や議員の挨拶なんて聞きたくもない連中が、ホールには入らずにロビーで、フリータイムの第二部が開始されるのを待っているのだ。
ロビーを埋めつく新成人、自分もその中の一人。男子は大抵スーツで、女子はほとんど振袖。はしゃぎ喋りまくる連中に、やっぱり来るんじゃなかった、その思いがピークに近づき――
「栄倉?」
疑問形ではあるが珍しい苗字を正しく呼ばれたことで、達した。
振り返る水兎を、やはりスーツ姿の男が覗き込む。
「憶えてる?俺」
「大岡…」
茶髪のミディアムレイヤー、輪郭もかなりシャープになってるけど。憶えてる。引き取るように答えると、大岡(おおおか)は小さく笑った。
「すぐわかった、お前相変わらず人目引いてるよ。つーか、昔以上」
ちらりと目を上げる水兎に、やや言葉を詰まらせて、弁解気味に続ける。
「や。変な意味じゃなくて。ルックス良いじゃん?」
「ふぅん」
頷くともつかない水兎の曖昧な相槌に、それでも安心したように、彼は表情を和らげた。
「あっち。お前あんまり付き合いなかったかもしれないけど、友達集まってるから」
大岡の手に強引に背中を押されながら、ロビーの一角まで歩かされることになる。そこで固まっていた数人の男は高校の同級生で、見覚えがあるやつもいればないやつもいた。水兎の存在はといえば、皆憶えているらしかったけど。仕方ないだろう。
初対面のメンバーでの呑み会みたいな、妙な雰囲気。明るさ、フレンドリーさを意識するあまり、口調も動作も不自然に馴れ馴れしくなる。クロストークが飛び交う中、大岡が水兎を見る。
「栄倉なにで来た?」
「歩きだけど…」
「送るよ。俺、車だから」
ただの良いやつ?いや、現実はもっと複雑。
大岡とは、中学、高校、両方の同級生だ。中学生の時は顔見知り程度だったが、高校に入学してすぐは顔見知り程度の関係がむしろ貴重で、つるむようになった。結果論だけど、彼には両方の過去を直接知られることにしかならなかった。保健室登校児の水兎と、ホモと噂された水兎の両方を。中学の二年生の半ばで、仲間から無視されるようになった。しばらく学校を休み、三年生の八割くらいを保健室で過ごしたから、いわゆる保健室登校児。高校の時も、何か具体的にしたわけじゃないのは中学生の時と同じ。ただ存在してただけで、勝手に噂されて。告って来た女子の一人を振ったのがたぶん、決定打だった。信憑性とか信頼性なんて、ゴシップには問われない。信じてなくたって、楽しめばいいんだ。面白おかしく噂されたのは一時的でも、以降、「ってゆう噂があった」という事実は残り続けた。例えば興味本位の上級生達に囲まれたって、誰も、もちろん大岡も、助けてなんてくれなかった。日和見な態度、渦中にいた時は何となく距離を置かれ、いつか噂が下火になれば、また何となく話しかけられたりして。
しばらく雑談していると、館内アナウンスが流れる。
第二部開始を知らせるもので、ホールのドアが開き、皆がどっと中に流れ込んでいく。入り口で詰まる列を少し遠巻きに待ちながら、ふと口を開く。
「なぁー、大岡」
「ん?」
「自責の念とか、感じてんの?」
ばつの悪そうな顔が、答えだと思う。うぜぇ、の一言を喉の奥で殺して、水兎は彼から離れた。
ホールのスペースは中学の学区ごとに分けられていて、それぞれのテーブルには飲み物も用意されている。だだし高校の同級生も多くいるわけで、学区ごとの秩序は大して守られていないように見えた。自分はどちらにも行きづらいと、改めて思い知らされてるけど。
見覚えのある、教師らしき人物と対面していた数人の男のうち一人の視線がこちらに流れてくる。あ、と、実際声になったかはわからない。
「ミト」
はっきり名前を呼ばれて、相手の名前が億劫に口をついた。
「…ジュン」
短髪に髭だけど、やっぱり、面差しって変わらないんだ。小学校高学年から、そう、中二の夏までは仲良かったやつ。幼稚なコミュニティー独特の理不尽さで、水兎をそこから外した一人。それまで、一番仲が良かった。
「先生」
淳(じゅん)が振り返った中年男性が、二年と三年の担任だということくらい最初から思い出してた。
「栄倉水兎。いや、立派になった」
問題児の名前を憶えていたらしい…何かの時生徒をフルネームで呼び捨てにするのが、彼の特徴だった。けど、茶髪ピアス軽装の男を評する単語じゃないだろう、立派って。その後すぐ、進学した大学のことを言われているのだと気づく。頑張ったなあ、などと言われ、肩を叩かれ、それに曖昧に頷き返し、淳と二人で壁際に移動する。
「他のやつらも来てんだぜ…ほら、そこでまとまってるバカ」
紙コップを持った手で、淳が前方を指差す。気づいた最初の一人は、数少ない羽織袴の男。残りの連中も顔を向け、手を振りながら、酔っ払ってでもいるんだろうか、大声を上げた。
「おーっ、ミトじゃん!」
あまりにあっさり友好的な態度を取られて、意表を突かれてしまう。横では淳がつられたように苦笑し、紙コップのジュースを一口啜った。
「卒業以来?元気だった?」
「まぁ…」
「すげーよな、大学。俺なんてただの東京「の」大学だし…遊んでばっか」
「彼女とかいんの」
「ん?ああ、まあね。お前はどうなの」
ただの恋愛話のつもりなんだろう、問い返す彼に、水兎は低く答えた。
「…おかげさまで。人間信じるの今でもどっか怖ぇし、どーでもいいやつとばっか付き合ってるうちに、ろくな恋愛できなくなった。ほんと、お前らのおかげ」
一瞬の沈黙。
「…恨み言言いに来たのかよ」
なぜ彼の口調が非難するものでなくてはいけないのか。どこか鈍かった意識が次第に晴れ、鋭い怒りが込み上げる。
「嫌そうな顔するけどさ。俺にとっては全然、水に流せねーんだよ」
「ガキだったよ確かに。でも昔の俺じゃねーし」
昔の話だと言うなら、その、昔の話をすればいいだろう。まるで他人に責任転嫁するような都合の良すぎる返答に、淳を睨みつける。
「昔のお前に言ってたら、何か変わったのかよ、状況は。変わんなかっただろ、実際」
語尾が強まり、最後、吐き捨てる。淳はまた、今度は考え込むように沈黙して、真面目なトーンで言った。
「…わかった。謝るよ、マジで。どう償ったらいい」
どうしても噛み合わない。今さら償えなんて、そんなこと要求してないし、良い思い出のように懐かしまれるのも苦痛だ。貧血の前兆のような、弱い嘔吐感。水兎は大きく首を振った。
「別にいい。確かめたかっただけ…何もなかったみたいな顔されて、もしかして夢だったんじゃないかと思ったから。つーか、夢だったらよかったんだけど」
ジャケットの裾を、きつく握り締めて耐える。俯く水兎に、淳の口から出たのはあまりに意外な台詞だった。
「そーやってさあ、何でも過去のせいにしてたら簡単だよな」
息もできないくらい驚いて、ただ、見返す。淳の目は正気だった。
「変われんじゃん。俺が昔の俺じゃないみたいに、お前だって。今度は力になるって、俺」
J-HIP HOPの安い歌詞でも聞かされいるよう。いや、その方がまとも。すうっと頭が冷えていく、本当に貧血かもしれない。この場に座り込みそうになりながら、水兎は精一杯声を振り絞った。
「うぜぇ」
掠れ声で、重ねる。
「うぜぇし、遅ぇんだよ」
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