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第2章7話

「ミト?」  ぺち、頬を叩かれる。  視界には白っぽくぼやけた肌色が広がっていて、ピントの合う距離まで離れれば、それは手の形になる。目と目が会うと、信広はきつい二重目蓋を軽く瞬かせ、笑った。 「落ちたのかと思った」 「…自信家」  治まらない呼吸の間から悪態をつく。経験があるから言えるせりふだろう。フラッシュに目が眩んだように、一瞬、頭の中が真っ白になった。半分以上その余韻に心を奪われている水兎を揶揄うように、信広が腰を押し付ける。まだ埋め込まれたままのそれが、ちゅ、音を立てて、うごめくから。 「んゃっ…」  背中が跳ねて、全身に鳥肌が立ち、頬が痙攣する。ふふふっ、また笑われて、もう一度突かれたので、もう一度、喘いだ。 「あー…駄目だ、眠ぃ」  少し硬くなっているのがわかるけど、これ以上は、ならないみたい。信広はそれでも未練がましく水兎の中で動いていたが、やがて、引き抜いた。  雨のせいで外は相変わらず暗いが、時刻はもう朝だ。  仰向けに寝転がった信広の肩にすがり、胸に頭を乗せる。両脇を抱えられ、少し持ち上げられると、キスができる姿勢になった。 「お前、ほんっと軽いね」  呆れたようにほころぶ唇に、唇を重ねる。  表面だけ触れて、放し、水兎はまた逞しい胸を枕にした。湿り気を帯びた彼の下の毛に指を絡めて引っ張ると、その手を剥がされる。端が少しほつれてしまった手首の包帯を、指の腹で撫でられて、気まずさが込み上げる。この白いものがちらちらしている限り、目障りでないわけがないだろう。 「なぁ、病院行くか」  何を指して病院と言っているのか、理解できないほど馬鹿じゃない。 「駄目だった。高校ん時、一瞬通ったけど…」 「今も駄目かはわかんねーだろ」  髪に彼の手が触れ、止まる。 「つうか。こんな、微妙に励ますみたいなこともしたくねえんだよ、俺は」  苛ついたように言って、乱暴に水兎の髪をかき回した。 「意味わかる?責任取れないことはしたくねえし…何つったらいいんだ、病院なんて合わなかったら変えりゃいいだけだろ」 「…うん」 「タクシー代わりにくらいなってやるから。けど、それ以上のことはしてやれねえよ、正直」  突き放す言い方。だけど必要なのはまさにそのスタンスで、偽善的な言葉より、解ったような言葉より、ずっと、水兎に近い。 「……うん」 「うん、以外言えねーの?」  胸板が可笑しそうに振動する。水兎は答える代わりに、彼の肌に頬をこすりつけた。    休み明けなんて、誰にとっても気だるいものだけど。  普通に、嫌々起きて学校に行く。普通に朝から授業、食堂で昼飯食って、午後の授業は一コマだけ。残りの時間、図書館で指定図書を開きながらテストのノート作りをする。一見真面目だが、今さらこれをやってること自体ギリギリの行為だというのが現実。周りのテーブルでも、似たような光景がいくつも見られるのもまた現実とは言え。四時頃までねばり、学校を後にする。駅前まで出て、時間をつぶし、五時前には慎の店に向かった。  開店前だとわかっていて、遠慮なく、店内に入る。 「早ぇよ、ミト」  まだ他の店員さえ来ていないようだ。モップの柄から片手を離して、怒ったふうもなく慎が薄く笑う。彼のようなプロポーションの人物がそんなふうに立っていると、舞踏の一幕にも見える。水兎は彼の横をすり抜け、カウンター席に座った。  無作法な来客に何も察しないような鈍感な男ではないはずなのに、遅れてカウンターの中に回り込んだ慎は、さりげなくシャツの袖をまくるだけだ。 「何飲む」 「あったかいの」 「また腹壊してんのか」 「…うん」  ゼロより少し上をひたすら這う波形グラフのように、一日中腹が痛い。水兎はダウンの上からそこを押さえて、彼を見上げた。 「ねーシンさん」 「ん?」 「ノブヒロさんのこと好き?」  グラスに伸ばしかけた手を戻し、腕組みをして。それから顎を撫で、慎は言った。 「ま、大事だけどね。俺が好きなのはお前」 「俺が好きなら…ノブヒロさんと切れて。最低なことゆってるって、わかってるけど」  目が合うのを避けるように俯く水兎に、ははっ、彼は軽く失笑するだけだった。 「わかってんなら、怒れねえな」  カチャ、静止していた動作が再開し、食器が鳴る。 「何心配してんだか知らないけど、もう寝てない。それ以外のことは確かに、たとえばあいつが俺ん家に入り浸ってようと、お前に口出しされることじゃないけど?」  やはり怒ったふうもないトーンなのに、気圧されている自分がいる。じっと俯いて、いつの間にか襟元からこぼれていたペンダントのチャームを睨む。 「…俺ほんとに好きなの。ノブヒロさんが」 「うん」 「どうしたらいいかわかんないの。俺、こんなだから」  左手首をぎゅっと握る。包帯、その上から革製のリストバンド、二重に隠してたって、忘れられるわけでも消えるわけでもないのに。好きだし、付き合いたいし、キスしたいしセックスしたい。求めるばかりと責められて、何かを変えたかったけど、それも上手くいかなくて。  コト、ホルダーつきの透明なグラスが出される。 「知恵熱出すなよ」 「…ムカツク」  水兎はそれだけ答えて、取っ手に指を引っ掛けた。アルコール臭のする湯気。一口啜ると、お湯割りの焼酎が喉を伝った。ちびちびとそれを啜り、再び慎を見上げる。 「説教されたって、ノブヒロさんが。何言ったの?」  ドレッドヘアを後ろで束ねる仕草をしながら、彼は無感動な表情だ。 「何にも。お前はガキで、まぁ、それよか少しは、あいつのほうがガキじゃねえって話」 「…教えてもらえると思わなかった」  実際の内容は想像できないが、どうせさらりとかわされるだけだろうと思っていたので、意外な答えに面食らってしまう。今度の慎はちらりと笑って、 「作戦だから。動揺したろ?」  あっさりそう言ってのけたのだった。  ――しばらくするとレギュラーの従業員が一人出勤し、やがて開店時間になる。一組の客が来店し、慎が接客を始めたので、水兎はぽつんとカウンターに残される。ガコ、と、また自動ドアの開く気配。もう一組目だろうと何気なく振り返ると、ゆるいカーゴパンツに包まれた脚が見えて、顔を出したのは信広だった。ふいっと前を向く水兎にどんな反応をしたかは、見えないのでわからない。信広は隣の椅子にどかりと腰掛けると、水兎の顔を覗き込み、片頬を歪めた。 「何だよその顔」  彼から目を逸らして木目を睨んだまま、答える。 「お腹痛い。妊娠した」 「…そりゃ悪かったよ」  面倒くさそうに言うと、信広は灰皿を引き寄せ、煙草に火を点ける。白っぽい煙と、鼻を刺す匂いが広がった。間を割るように背後から伸びてきたのは慎の手で、 「胃腸弱いくせに。中出しさせたんだ…はい、豆腐」  小鉢を置くと離れていく。簡単に正解を導かれ、熱くなりそうな頬を袖でこする。隣で笑った信広が、冷めかけのお湯割りをさらって、口をつけた。  流れのない空気に、煙草の煙が淀む。  水兎はその煙草の先を横目で見ながら、呟いた。 「もうすぐ始まるんだけどー…」  目的語の抜けた日本語を、考えてるような間。 「テスト」 「…あぁ、うん」 「俺、ノート持ち込み可のテストって苦手。全部範囲とかって、範囲の意味ないじゃん」 「んー」  ふー、と、盛大に煙を吐く。 「ねー。聞いてる?」 「聞いてるよ」  煙草を持ち替えた信広が、空いた手を所在なさげに腿の上に置く。水兎がその手に自分の手を重ねると、握り返されるようなことはなかったが、払われることもなかったので、そのまま指を絡ませた。  信広は深く頬杖をつくと、遠くを見るように目を細める。彼の親指の腹が、かすめるように、薬指の爪を撫でた。 「で?」 「あ、うん」 <終わり>

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