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第1話

「調教開始だ」  畳に正座する皐月(さつき)理仁(りひと)は、スマートフォンを手に、にやりと口角をあげた。  両手を駆使したフリック入力でたちまち、未変換状態で保てるぎりぎりの長さの文を打ち込む。そして変換。……結果は、みるも無惨である。革のジャンパーと浴衣とウールの靴下の断片を木工用ボンドで貼りあわせたようにちぐはぐな、漢字かなカナ英字、ついでに顔文字の列がでてきた。単語の切れ目もめちゃめちゃだ。 「うん……赤ん坊のようだね、君は」  日本語入力(インプット)方式(メソッド)エディタ――いわゆる日本語IMEのたどたどしさに、頬がほころぶ。IMEも現代の申し子。善戦はしている。たとえば砕けた言葉にも対応できている。  だが、理仁は、国語辞典に載っていないいかがわしい単語、百科事典のはしにある長々しい固有名詞、あるいは化学用語、ばかり織り込んでいた。  生まれたての純朴IMEは、それらを知らないのだ。  ――ああ、たまらない。  理仁は、同僚のお姉さんたちから白魚のようだと言われる長い指を動かし、一語一語、正確な変換を教え込んでいく。  一時間後、満足した理仁は畳の上で大の字になった。  化学系企業に勤める理仁の趣味は、IMEの調教だ。自分色に染めあげるのが醍醐味なのだ。就職活動のときにはまった。片手間に通勤電車でするのも背徳感がたまらないが、たまにはこうじっくりしたい。  ……十年間使っていたパソコンは、自分色に染められて、専属執事のようだった。理仁のタイピングミスも察知して修正してくれる。――いよいよ新モデルに乗り換えるため手放すのだけれど、お別れが本当に残念だ。  そんなことを思いながら、うたた寝する。 「……ん?」  ひどく、体が重い。覚醒に導かれた理仁は瞼をあげたとたんに叫んだ。 「ど――どこからきた!」  腹の上に、馬乗りになっているやつがいる。さらりとした髪の毛、意志の強そうな上がり眉、すうっと通った鼻梁、そして全裸。 「俺? 君の同居人だよ。浮気を咎めにきたのさ」 「僕に同居人なんていない! 恋人もいない! 浮気相手も存在しない! 結婚も永遠になさそうさ!」 「大声をあげないでよ、ハニー。君のかわいらしい喉がメチャメチャに酸化されたような傷物になるだろう?」 「喉を品物あるいはより不穏なもののように言うな。で、妄想は大概にしろ」  状況としてはすべて自分の幻覚という方が収まりがよいのだが。 「せっかく人間の格好になったのに、理仁はつれないね。あんな(うぶ)でちっちゃい子にかまけて、俺のことなんて忘れたの?」  謎の全裸男は、子犬のような目をして、理仁のへそをつうっと撫でる。理仁は、下着以外剥かれていることを自覚した。 「誰のことだ! 社の新人か? 今年の新入社員は男女とも皆170cm以上だぞ?」 「違う。あの、ハンディサイズの子だよ」  男は片手で、一畳むこうを示す。新品のスマートフォンだ。 「ま……まさ、か」 「わかってくれた? 俺、理仁の手に毎晩かわいがられてたんだよ。こんな風に……」 「さ、さわる、なっ」  無地の布を、男はくすぐる。タイピングなら、キーを押し込みきらないくらいの、力加減。理仁が、次の入力を待ちかまえるIMEをじらすようによくした手つきに似ている。……似ている。  きっとあのパソコンのくせに。 「気持ちいいでしょ?」 「んな……わけ、ぁ、ゃめ……この、機械、野郎っ……」  軽やかな接触がだんだん深くなる。布がきつくなり、でも無理矢理こすられるものだから、苦しい。秘密をこじらせて云十年童貞の身にはすぎた刺激だ。 「夢みたい。理仁が俺の前で、ひとりでしてたときの顔、俺がさせられるなんて」  あれがこれなウェブサイトを巡っていたときの表情でも記憶されていたというのか。羞恥が全身の肌を熱くする。 「まだ、こんなとこ、あの子には見せてないよね?」 「し、してない」  布の下に指が進入してきて、びくっと下肢がはねた。 「理仁のエッフェル塔、戴冠してるんだね。大丈夫、月桂冠のアポロンはすぐマチュピチュ山の頂で悦楽の蒼天に還元してあげるから」 「地域まぜまぜで変なこと言うな!」 「理仁が俺を育てたのに」  男は笑っている。無性にさわやかで、正直、タイプだった。  困って理仁は顔を手で覆う。 「俺だけに見せる顔、見せてよ」 「ん……や」  首を振ると、耳元に低いささやきがきた。 「俺の体の中さ、理仁が中学生のころ打ち込んだいろんなデータがあるんだよね。ここで読み上げようか? あの子にも聞こえるように。まずは日記からいく?」 「やめて、それだけは……」  理仁は両手に細い隙間をあけた。と、小指の付け根より下にぬるりとした塊がきた。塊は手の肉をこじあけて、入ってくる。 「あ……理仁、あったかい」  唇が、なめられている。  幼稚園以来誰ともキスしたことなかった理仁はそれだけで赤面したのに、男の舌はとどまらない。当然のように口の中をかきまわす。くちゅり、じゅぷり、と水の音をさせて理仁の舌を弄ぶ。 「ん……、こんな、こと、どこで、知って――」 「ぜんぶ理仁が教えてくれたじゃない。文章でも映像でも。いい生徒でしょ、俺? 痛くないように、秘めやかなる蕾を加水分解するものもキッチンでさっき準備してきたんだよ」  どこからなにを言えばいいのだ。ほぐすってつもりか。 「理仁に、入りたい。浮気とかおいといて」  ――正気かこいつ。いや、自分。  理仁は、精査する理性を失いかけ、ただ困惑する。  いくら欲求不満でも、こんな妄想なんて――好みの男を言動以外具現化して抱いてもらうなんて。 「僕と、するのか?」 「理仁と体を重ねたかったんだ。それで、……」  男は一瞬顔をゆがめた。 「どうした?」 「ん、大したことないよ。ちょっと無理しただけ。しよう?」  理仁は、男の唾液が残る唇を噛んだ。  目の前の彼は、隠れゲイの理仁の憧れを形にしたような容姿なのだ。それが都合いいことを言ってくれる。墓まで孤独かもしれない理仁相手に。  もう、妄想でもいいんじゃないかって気がした。こんなにリアルなら。  理仁が小さくうなずけば、キスが額に落とされた。

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