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その後の話『梅香る君』 3
御簾越しに突然声をかけられたので目を凝らすと、そこにはいつの間にか今上帝が立っておられた。
「あっこれは……」
俺は慌てて直衣の袂で涙を拭い、雪の積もった地面へと跪いた。もしかして、ずっと見られていたのか。あんな風に木陰で乱れて泣く姿を……何と恥ずかしく極まりが悪いことだろう。
「これは洋月の君……どうされた? 随分と濡れていますね」
「申し訳ございません、このような乱れた姿を」
「いや構わない、さぁこちらへお入りなさい。少しあなたと話がしたかったのです」
「えっですが……」
「いいから、さぁ今そちら側へ女官を迎えに行かせよう」
今上帝……それは名目上では、俺の腹違いの兄だ。
俺の実母は身分も低く後ろ盾もなかったので、中宮の第一皇子である今上帝とは、接する機会もほとんどなく、ろくに話したこともなかったのに、こんなに親し気に呼びかけて下さるとは……一体どういう風の吹き回しなのか。
信じられない気持ちで、もう一度その姿をじっと見つめると、かつて牡丹と呼んだ父に面影は似ているが温厚で物静かな雰囲気だった。
年老いた女官が雪よけの覆いと共に庭に迎えて来てくれ、濡れた衣も優しく拭いてもらった。
「かたじけない」
「まぁ光る君さま……私共にそのような気遣いは不要です。あなた様は今上帝の弟君でおられるのですから」
「……」
俺は……そんな風に丁寧に扱ってもらえるような人間ではない。薄汚れた人間だということは自分が一番理解しているのに……それでもこんな風に大切にされると、ぽっと心に明かりが灯るような温かい気持ちになってしまう。
思いがけず御簾越しに今上帝と対面することになった。
「あなたと、こうやってお話しするのは久しぶりですね」
「……恐れ多いことです」
「そんなに畏まらなくてもいいのだよ。あなたと私は血を分けた兄弟なのだから」
「そんな……」
本当は血など繋がっていないのだが、それは亡き牡丹と俺だけの秘密だった。少しも疑わず俺を信じてくれている様子に、いたたまれない気持ちになってくる。
「先ほどね、少し騒ぎがあって……女房が届けてくれたのだよ……これを」
帝が何かを女官に持ってこさせたので御簾越しに確認すると、それは俺の冠だった。
「あっ……」
すっかり失念したが、先ほど兵部卿の宮に絡まれた時、ぶつかって落としてしまったのだ。よほど気が動転していたのだろう。冠をつけていないことに今まで気が付かないなんて。
「これはあなたのですね」
実際につけていないのだから、誤魔化しようがない。宮中にいるのになんという失態だ。思わず躰も顔も強張ってしまう。
「あぁそんなに緊張しなくてもよいのですよ。叱っているわけではないのだから」
「申し訳ございません。落としてしまって」
「もしや……何かありましたか。あなたのことは今は亡き父帝から頼まれているのですよ」
「えっ……」
何故……そんな、思いがけない言葉だった。今上帝は優しく微笑み、兄として慈愛に満ちた目を真っすぐに向けてくれていた。
「先ほどの渡殿での騒ぎについては、兵部卿の宮を厳重に注意しました」
「……何故」
兵部卿の宮の名が、帝の口から出て来て驚いてしまった。
「この冠……何が起きたのか察しは付いています。あなたのことは守らせてください。兄として帝として使える力を持って、あなたのこと、そして丈の中将の名誉を守るように、そう父上が亡くなる時、私に頼まれたのですよ。だから弟君。そう心配なさるな。何も悪いことにはならない。あなたは宇治の住まいにそのまま住んでよろしいし、丈の中将との間柄も理解している」
「……なんと…なんと恐れ多いことです」
信じられない。まさか牡丹が……いや……父帝が……ご自分が亡き後のことに対して、こんな気遣いを残してくれていたとは思わなかった。
「さぁそんなに濡れて……あなたはいくつになられても歳を取るのを忘れたかのように美しく輝いていますね。私も幼い頃はあなたの美しさに嫉妬したものですが、今は守ってさしあげたい輝きですよ。さぁ冠にこれをさしてあげましょう」
手元に返してもらった自分の冠には、白梅の花が飾りつけられていた。
「『光る君』の別名は……『梅香る君』ですよ。雪に覆われていても、どこにいてもその芳しい香りは隠せない。さぁもうあなたの場所へ戻りなさい。大事な人も戻っているころでしょう」
思いがけない今上帝からの助け舟に今回は救われた。
守ってもらってばかりで歯がゆいが、俺にとって宮中とはそういう場所だ。
守り守られ……雨風をしのぎ、折れずに生きて行かねばならないのが運命ならば、耐えてみせよう。
柳に雪折れなし。
柳のようにしなやかに……
丈の中将、あなたと生きるために──
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