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第76話
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心地良い体の締めつけに、ふっ、と意識を取り戻す。目が覚め、自分が櫻井の腕の中で眠っていたことがわかると優弦は満ち足りた笑みを浮かべた。
巻きつく腕から逃れて起きあがる。鈍く痺れる下半身と、櫻井が放った名残りが体内を滑り落ちてくるのが感じられて、小さく身震いをした。ベッド脇の目覚まし時計に腕を伸ばし時間を確認する。
(もう、こんな時間か。シャワーを浴びてから行かないと)
薄い灯りの下、腕の内側に小さな桜色の痕が点々と浮かんでいるのが見えた。それは昨夜一晩かけて櫻井が優弦の肌に散らしたもの。きっと胸や太腿にはもっと沢山の花びらが舞っているはずだ。
優弦は隣で眠る櫻井を起こさないようにと気を使いながら静かに床に爪先をつけた。ところが、
「優弦、どこに行くんだ?」
いきなり腕を引かれて優弦は体勢を崩した。倒れ込んだ先に櫻井がシーツごと全裸の優弦を抱き留める。
「まだ朝じゃないだろう? おれを残してどこに行くつもり?」
「営業車を返しに。もうすぐ帰庫時間だから……」
「明日、また仕事で使うんだろう? このまま借りっぱなしじゃ駄目なのか?」
「営業車は次の乗務員が使うんです。戻さないとその人が今日の仕事、できなくなるから」
眠気が覚めたのか、櫻井が、へぇ、と返事をした。優弦は櫻井に笑いかけると、
「すぐに戻って来るから、もう少し寝ていてください」
「そうだね。今度は優弦のキスで起こしてもらおうか」
目蓋を閉じる櫻井の顔に優弦は頬を染めて、浴室へと急いだ。
制服から私服に着替えて、お疲れさまでした、と事務所を出ようと扉を開けたところで、ヘッドライトを灯して一台の車が帰ってきた。あれは川本の営業車だ。自分を待つ優弦に気がついた川本は車を駐車し終えると、やけにニヤニヤしながら車を降りてきた。
「よう、お疲れさん。その顔は収まるところに収まったっちゅう顔じゃな」
すべてお見通しだと、まるで子供のように川本は優弦を茶化す。それにちょっぴり苦笑いで返して、
「川本さん、本当にありがとうございました」
「んー、ええよ礼なんか」
少し川本が照れている。そして、
「あのな、本音を言うとおまえらのこと、ちぃとばかりびっくりした。ほじゃけど、あの人はホンマにおまえのことを、大切に思っとるんがようわかったけえ。それにおまえも櫻井さんに会うてからずいぶん変わったしのう」
「変わった? おれが?」
「ほうよ。笑顔が増えたし、ええ具合にくだけてきたゆうんか、なんか大きい荷物を降ろしたみたいな感じじゃな」
川本がにやけながら自分の首すじを指差した。なんのことかと思ったが、彼が優弦に残された櫻井の痕を指摘しているのだとわかって狼狽えた。
「ま、皆と仲ようなるんには、もうちっとかのう。そろそろおまえも自然と広島弁が出てきたら、もっとうちのじいさんドライバーらが可愛がってくれるで」
んじゃ、お疲れさん、と川本は事務所へと歩いていく。優弦はその後ろ姿に頭を下げて、嬉しくても涙が出そうになるのだと改めて思った。
眠っている櫻井の端整な顔をじっくりと眺めて、優弦はその唇にそっと自分の唇を重ねる。するとすぐに櫻井は目覚めて、「姫のキスで起こされるのもいいね」と軽口を叩いた。
「雅樹さん、まだ早いですけど起きて服を着てください」
優弦をベッドへ引き込もうとしていた腕を反対に引っ張られて、櫻井はむくりと上体を起こした。
優弦はなぜか、はやくはやく、と子どものように櫻井を急き立てる。訳も解らず、優弦に言われるがままに服を着た櫻井は、そのまま手を取られて部屋を出ると車の助手席に押し込められた。
普段の営業車とは違う、優弦の軽自動車は、楽しげにハンドルを握る優弦の運転でどこかに向かっている。やがて目の前にあの満月の夜の海を眺めた大きな橋が見えてくると、優弦はその橋の袂にあるホームセンターの隣の小さな公園横に車を停めた。
優弦は櫻井の少し前を弾む足取りで歩いていく。その背中を櫻井もついていき、大きなアーチ状の橋の歩道の頂点が近くなったところで優弦は櫻井に振り返ると立ち止まった。
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