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第77話

「なに? ここからなにが見えるんだ?」 「雅樹さん、前に見た満月が映る海が綺麗で印象に残っているって言いましたよね」  櫻井が頷いたのを認めると優弦がふわりと微笑んだ。そして欄干に背を向けて立つと、 「おれはこの海の風景が一番好きなんです」  櫻井も横に立って優弦の視線の先を追う。目の前に広がった光景に息を呑み、その眩しさに目を細めた。 「……ああ、たしかに素晴らしい。光が波間に揺れて……、海が輝いている」  夜が明け行く瀬戸内の海――。  対岸の島の稜線から昇った太陽が空と海を照らし出す。雲一つない空に広がった陽の光は、先ほどまで暗闇に瞬いていた街の灯りを小さく消していき、金色の水面に浮かぶ島々の陰影をはっきりと浮かび上がらせている。まるで自らが光を放っているような海を進む船や牡蠣筏が立てる波は、キラキラと光る飛沫をその軌跡に残していった。  海から吹く風が暖かく感じる。それは太陽の直接的な熱とは違う、黄金の波間から発せられる温もりを乗せた風だった。 「雅樹さんが瀬戸内の海が好きになったって聞いて、いつかこの景色を見せたいと思っていたんです」  優弦に言われて櫻井は、早朝の海を眺めるのは生まれて初めてだと気がついた。  隣の優弦の背中にそっと手を添える。たまに橋の上を車が行き交うのに、優弦は恥ずかしがることもなく櫻井に体を寄せた。 「ほら、あれが宮島。その横が能美(のうみ)江田島(えたじま)で、あの先に……」  浮かぶ島々を指で差しながら教えてくれる優弦の横顔を、櫻井はいとおしく見つめた。  しばらく二人で肩を並べて太陽が昇る海を眺めていた。すると、視線を感じて櫻井は隣を見る。陽の光に照らされた優弦の顔が少し曇り、そして寂しそうに言った。 「雅樹さん。この景色を忘れないでください。おれは雅樹さんがいない間、ここで待っています。だから、必ずここに帰って……」  その優弦の台詞に櫻井は、はっとなにかに気がつき、あーっ! と叫んだ。櫻井の突然の大声に言葉を遮られた優弦が驚いていると、櫻井はなんともばつが悪そうな表情で、 「昨日のタクシーでの会話の内容は、半分嘘だよ。あの電話自体がおれの一人芝居。それと昨日は東京に戻るつもりもなかったんだ。おまけに言うと、万年筆を車に落としたのもわざとだ」 「う、うそ?」 「それからもうひとつ打ち明けると、最初に優弦に会ったときに話した学生時代の友人が書いていたって言う小説のことも、咄嗟についたでまかせだ。初対面の君に少しでもおれの印象が残るようにと……。今から思うと我ながらよくできた作り話だな」  呆気に取られる優弦に櫻井はなおも、 「どうしても優弦に逢いたくて、昨日は川本さんに協力してもらった。それにたしかに広島での仕事は終わったけれど、実はずいぶん前からここの大手自動車メーカーに勤める知人に来ないかって誘われていてね。来月から働くことにしたんだ」  櫻井は照れくさそうに前髪を掻きあげて、 「だから、これからずっと優弦のそばにいるよ」  いつまでも呆れた表情を崩さない優弦にさすがの櫻井も不安になった。嘘をついて騙したことを怒っているのだろうか。櫻井は恐る恐る「優弦?」と名前を呼ぶと、プッ、と優弦が噴き出して、あはははっ、と大きな笑い声をあげた。そして、笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭いながら、 「もう、ほんまに雅樹さんと一緒におると、たまげることばっかりじゃ!」  ふふふ、とひとしきり笑った優弦が今度は櫻井の驚く顔に気がついた。

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