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第53話

 同じ頃、その紫月を通り沿いで拾う予定だった氷川の方は、駅の反対側の改札を出たところにあるホテルのロビーにいた。今日はここで軽い会食の接待があったのだ。 「俺はこのまま駅を突っ切って、先に一之宮と落ち合おうと思うが」  手元の時計を確認すれば時間的にはまだ余裕があったが、渋滞を見込んでか、氷川は側近の男にそう告げた。確かに距離的には目と鼻の先でも、線路をくぐるとなると時間的には読めなくもある。  早春とはいえ、宵闇に親友を待たせるのも気掛かりならしい主の意向はよくよく理解できるのか、側近の男はすぐにその旨を運転手へと伝えた。 「では私もお伴させていただきます。車はお待ち合わせの場所へ向かわせて、待機させますので」  氷川を一人にさせるのは言語道断なのでそういう判断になるわけだが、この辺は氷川も重々理解の上だった。  そうして歩き出した男たちの周囲には、何処とはなしに好奇の視線があふれている。仕事の後ということもあって、きっちりと着込まれたスーツは無論のこと、もともと長身で端正なつくりの氷川は、その存在感だけで他人を惹きつけてやまないらしい。  そんな彼に付き従っている男もそれに負けず劣らずのキレ者といったふうだから、彼らが歩を進めるごとに自然と道が開けられていくような調子だった。  混雑している駅構内でも人にぶつからずにいられるというのは有難くもあるが、それでも何か事が起こってからでは遅いので、側近の男は常にそれとなく周囲に気配りを忘れなかった。  無事に駅を出ると、何本か通りを行った先の待ち合わせ場所へと歩を進めた。だがその途中で、何やら物々しい雰囲気の人だかりができ始めている様子に、氷川と側近の男は同時に眉をひそめた。 「何かあったのでしょうか?」 「……ああ、そうみてえだな」  黒山の人だかりに近付くと、どうやら事故のようである。誰かがしきりに「救急車」と叫んでいる様子が飛び込んできた。  これでは渋滞は免れない。氷川はやはり徒歩で先に来て正解だったと、そう思った直後だった。 「若い男が高校生のガキ二人を庇って轢かれたってよ!」 「マジかよ。救急車はまだなのか!?」 「誰かこの兄ちゃんの連れとかいねえのかっ!? 身元の分かるもんはねえのかよ!?」  慌ただしい怒号が飛び交う横をすり抜けながら、一応紫月に電話を入れて現在地を確かめようと携帯を取り出した。と同時にちらりと横目に視界を過ぎった見覚えのあるダウンジャケットが、血染めになって歩道の植え込み辺りに垣間見えたのに、氷川はギョッとしたように歩をとめた。 (まさか――ッ!?)  嫌な予感に携帯を握る手が瞬時に汗ばむ。ダウンジャケットの姿を凝視したまま、氷川は人垣をくぐり抜けて男の傍へと歩み寄った。 「一之宮ッ――!?」  狂気のようなその叫び声に、一瞬その場が静まり返り、すべての動きが止まったかに思えた。  夕闇が降り切る少し手前の濃い橙色の空も、点在し始めた街の灯も、慌ただしい人々の雑踏も、そのすべてが停止し、この世の中から音さえも消えてなくなる――。  呆然と立ち尽くしていたのはほんの僅かだったろう。だがそれが終わることのない永遠のように感じられたのもまた錯覚ではない。  目の前で誰かがしきりに何かを叫んでいる。  尋常でなく衝撃を受けているふうに映ったのだろうか、ガクガクと腕を掴まれて揺さぶられているような気もする。 (あんた、この兄ちゃんの連れなのかッ!?) (おい、あんた! 俺たちの言ってることが分かるか!?)  そんなふうに言われているのかも知れないと思えども、実際には分からない。  見知らぬ男たちの必死の形相だけが視界に飛び込んでくるのに、何を言っているのか肝心のその声が閉ざされて聞こえない。  人の声だけではない。クラクションの音も雑踏も、すべてが無音の世界が目の前に広がっているだけだ。

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