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第55話
「ああ、そんなもん、お前のこの怪我が治ったら……いくらだってやってやる。好きなだけ相手になってやるから……!」
「……約束……だぜ……?」
「ああ、約束する。だからもうしゃべるんじゃ……」
「今度は……ぜってー負け……ねえ……」
「ああ……」
「今度……こそ……お前に勝つ……から……」
血に濡れた震える指先を差し出しながら、とぎれとぎれの声で、紫月はまるでうれしそうにそう言って微笑んだ。
そうだ、今度こそ絶対に負けない。あの埠頭の、煉瓦色の倉庫でもう一度。
輝いていたあの春の日に戻って、必ず拳を交わし合おう。
次は必ず勝って、これで相子(互角)だと微笑み合おう。
氷川と俺と、そしてお前と一緒に三人で、もう一度――
「なあ、遼二よー」
まるで誰かに語り掛けるようにそう言って微笑んだのを最期に、その瞳は次第にゆっくりと閉じられていった。
彼の声音は幸せに満ちているというにふさわしい程の穏やかでやさしいものだった。
「……い……ち之宮……? おい……なあ、おい……ッ」
笑みの形のままの唇も、閉じられたばかりの瞳も、すべてが穏やかで満ち足りているようなのに再び時が止まる。
ふと、抱き包んでいた彼の身体を誰かが横からバトンタッチするかのように、さらっていくような気配がした。
驚いて顔を上げれば、そこには確かに見知ったはずの懐かしい香りと黒髪の印象が立ち上り――
特徴的だった漆黒色の瞳が穏やかに細められているのが分かった。まるで『ありがとう』とでもいうように心から優しげに、そして親しみのこもった微笑みを向けてくるのは、まぎれもなく在りし日の鐘崎遼二だった。
そして何故かその遼二に抱き包まれるようにして傍に寄り添っているのは、今自分の腕の中にあるはずの傷付いた一之宮紫月に他ならない。重傷のはずの怪我の痕跡は見当たらず、二人共に至極満ち足りた笑みを浮かべている。
――氷川、約束したぜ? いつかまた、きっと三人であの時みたいに――
肩を並べ合おう――
自分を見つめていた二人の笑顔がだんだんと薄くなり、背後の街の雑踏の中に透けていく。
夢幻のようなこの出来事は現実なのか。その意味するところは何なのか。第一、切羽詰まったこんな時にどうして鐘崎の幻が浮かんだりするんだ。何故、一之宮は笑っているんだ。
そんなことが脳裏を巡り、ようやくと氷川は我に返った。
「カネ――!? 待て……待ってくれっ……!」
幸せそうに微笑む彼らの幻が完全に空へと消えると同時に、心配な面持ちでこちらを見下ろしている学ラン姿の二人の顔が、まるで入れ代わるように鮮明になって飛び込んできた。彼らはたった今、紫月が庇って助けたという高校生の二人だ。
その悲痛ともいえるような表情に驚いて、即座に腕の中の存在を見やれば、そこには先程までと変わらぬ傷だらけの紫月の姿があった。
穏やかな表情で眠るように腕の中で動かない。
「……嘘……だろ……? なあ一之宮……? おい……」
嘘だろうカネ――?
まさかそんなこと。頼むから、嘘だと言ってくれ。お願いだからこいつを――
「連れてかねえでくれよッ……カネっ…………!」
たったひと言で喉が焼けつき、焦げたように嗄れ尽くし、悲痛な叫びは届くことなく掠れて雑踏の中へと呑み込まれていった。
◇ ◇ ◇
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