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第56話

 暦は三月に入ったというのに粉雪の舞い散る寒い日だった。  夕暮れ間近の薄灰色の景色の中、人影もまばらな埠頭の倉庫街で一人佇み、氷川白夜は寒空を見上げていた。 「こんな所にいたのかい? 随分と捜したんだぜ?」  聞き覚えのある、だがいつものそれより元気のない声音に後方を振り返れば、そこには粟津帝斗が弟の倫周を連れて立っていた。皆それぞれに喪服の黒に身を包み、その表情は重苦しく翳りを伴っている。高校時代からの仲間だった一之宮紫月の弔いの帰り道、切なさに胸が潰れそうなのは誰しも一緒だった。  式が済むと同時に、何時(いつ)ともつかずに姿を消してしまった氷川のことを心配して、帝斗が捜しにやって来たのだ。何せ氷川は紫月の最期に居合わせたこともあって、仲間内の誰にも増して辛い思いを抱えているであろうと思えたからだ。彼の側近たちに居場所を訊ねて、ようやくと捜し当てた場所がここだった。  朝方からのどんよりとした曇天は葬儀の始まる昼前になって雪へと変わり、酷な程の冷気がそれぞれの重たい心に、より一層の枷を強いるような一日となった。  そろそろ夕闇が降りてくる時分の今、まだ粉雪のチラつく中に漆黒の喪服姿で佇む氷川の後ろ姿からは、普段の精鋭な雰囲気は微塵も感じられない。どこを見るともなしに空に漂わせた視線に鋭さはなく、ただただぼんやりとそこに在るというだけの姿が、より一層悲しみの深さを物語ってもいるようだった。 「そろそろ日暮れも近い……こんな所でじっとしていたら風邪をひくよ」  互いにどんな言葉を掛け合っていいのかも分からない。そんな思いのままに、それでも彼を気遣いながら帝斗はそう言った。 「此処な、あいつらとタイマン勝負をした場所なんだ」  氷川は一瞥だけ帝斗を振り返ると、再び視線を遠くの空へと逃がしては、ポツリと覇気のなくそうつぶやいた。 「一之宮は最期まで此処での思い出を懐かしんでた……」 「……そう……。きっと紫月にとって忘れたくない大切な思い出のひとつだったんだろうね」  悲しみに暮れるというよりは殆ど何をも考えられないような放心に近い状態で、頬を撫でていく粉雪を見るともなしに帝斗はそう相槌を返した。その傍でやり取りを聞いている倫周も似たような状態だ。無論、氷川も同様で、帝斗らに話し掛けるというよりは、独白に近いような調子で先を続けた。 「……あいつにとってあの時のことは何より大事な思い出なんだろう。もしかしたらヤツの人生の中で一番幸せな記憶だったのかも知れない」 「……一番……?」  ぼんやりとしたままだった感情をようやくと取り戻したように帝斗がそう訊いた。 「あいつは事ある毎にここでの勝負のことを思い出してた。カネの葬儀の時にヤツが俺を殴ったのを覚えてるだろ? あれだってきっと俺の顔を見た途端、その時のことを思い出したからに違いねえんだ」  実際、それ以外には取り立てて紫月と氷川の間に直接的な接点は無かったに等しい。街中で互いを見掛ける程度のことはあっても、わざわざ声を掛け合う程には親しい付き合いをしていたわけじゃない。つまり、顔を合わせればその時のことしか思い浮かばないのは当然かも知れないが、けれども氷川にはそれだけの理由で紫月がその時の出来事を大事に温めているのではないということも解っていた。 「あいつが……一之宮があの時の勝負を忘れないのは、カネが命掛けでヤツを守ろうとしたからだ。俺の手管から守る為にカネは身を挺してヤツをか(かば)った。それが何よりうれしかったんだろう」 「……そう、そんなことがあったんだね」

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