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第89話

 しばし呆然としたままの紫苑らをよそに、氷川が視線を向けたのは、白井ら不良連中によって暴行され、地面に転がされている男だった。  すぐさま側へとしゃがみ込み、首筋に手を当てたりして容体を気に掛ける。そのまま身体のあちこちを探り、少し険しく眉根を寄せる。その様を見るなり、 「おい、おっさん! 勝手なことしてんじゃねーよ! そいつは俺らの獲物だ」  横取りするなというようにイキがってみせたのは白井だった。  周囲には自分らの仲間が大勢いる。また、兄貴分的存在のヤクザの男たちも数人が揃っているこの状況で、相手側に多少威圧感のある男が加勢として一人くらい湧いて出たところで、よもや事態が大きく動くわけもなかろうと自信満々なのだろう。或いはヤクザ連中の目の前で度胸のあるところを見せれば、今よりも自分のことを買ってもらえるとでも思ったのか。加えて、突如現れた氷川が一見したよりも穏やかそうな様子をナメたのか、おそらくそのすべてだろう、白井は屈んでいる氷川に唾を吐きかけん勢いで嘲笑してみせた。 「聞いてんのか、おっさんよー! てめえ、邪魔だっつってんの分かんねえのー?」  こう言っては何だが、ここにいる不良連中たちの中での白井は仲間内でも飛び抜けて一目置かれているというわけでもない。かといって、バカにされているというわけではないが、『数いる不良連中の中の一人』といった程度で、特には目を掛けられているわけではないのは確からしかった。そんな位置付けをここで一気に格上げしたいのだろう。  だが、そんな思いを知ってか知らずか、先程から幾度となく啖呵を切っても、依然として地面にノビた男の様子を診ながら返答の一つもしない氷川の態度が勘に障って仕方ないらしい。ついぞ、しゃがみ込んでいるその肩先目掛けて蹴りを食らわせんと足を振り上げた瞬間だった。その氷川にガッと靴底ごと掴まれて、片足を上げたまま動きを封じられてしまった。もう片方の足は地面についたまま、蹴り上げた方の足を掴まれて、非常にバランスの悪い態勢で微動だにできない。靴底を掴んでいるのはこの男の片手だというのに、振り切ることさえ儘ならない力加減に、みるみると冷や汗が浮かぶ。  黙ったまま、怒鳴るでもなく、単に鋭い眼光で自分の方を見据えているだけの氷川の様子が、逆にとてつもなく不気味に思えたのだろうか、ともすればこのまま殺されてしまうのではないか――そんな恐怖が白井に狂気の声を上げさせた。 「うぉおおおおー、放せっ! 放しやがれ、クソったれー! ぐぁああああ……!」  気が違ったようにわめき散らし、自らの両手で、掴まれている足先をガシガシと揺さぶり、引っこ抜く勢いで暴れ回る。やっとの思いで振り解いた反動で、白井は無様この上なく地面へと尻もちをつかされてしまった。  一瞬、場が静まり返る――  周囲で見ていたはずの仲間は誰一人として「大丈夫か」のひと言さえ掛けてくれる者はいない。それどころか、まるで情けない様を晒してしまったようで、居たたまれない雰囲気が白井を襲った。 「く……くそっ、ナメやがって……」  このままではヤクザ連中にも仲間たちにも認めてもらうどころか、蔑まれるのがオチだ。その羞恥の為か、ゆでダコのように顔を赤くして興奮する白井に、氷川が浴びせたのは酷く冷静なひと言だった。

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