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第90話
「少しおとなしく出来ねえか? 脈が聞こえねえ」
「はぁッ!? ふざけてんじゃねえぞ、クソジジイが!」
やっとの思いで立ち上がろうにも、実のところ腰が抜けた状態なのか、フラフラとその足元はおぼつかない。まるで酔っ払いのように、すぐに地面に崩れ落ちては、また立ち上がりを繰り返している。そんな白井を他所に氷川は背後を振り返ると、
「倫周、表に帝斗が待ってる。ヤツに言ってすぐに車を回させろ。こいつを医者へ運ぶ」
テキパキとそう指示をした。
「うん、分かった」
すぐさま倫周が倉庫入口へと走り、今しがたまでの乱闘騒ぎが無かったことのように、まるで休戦状態だ。白井側の不良連中も、遼平と紫苑をまじえた春日野ら桃稜の生徒たちも、氷川の登場で完全に場を仕切られた感に、誰もがしばし唖然とさせられていた。
何はともあれホッと胸を撫で下ろしているのは桃稜の生徒たちの方だ。逆に面白くないのは白井らの方で、とことん不愉快な展開に怒りをあらわにしていた。
「ナメてんじゃねえよ、おっさん……!」
もうヤケクソの捨身のようになって、白井が足元に落ちていた鉄パイプを拾い上げ、再び氷川目掛けて襲い掛からんとした時だった。
「おい、こいつをヤったのはお前か?」
一瞬、怒りを削がれる程の落ち着き払った声で、だがしかし鋭い眼光をくれながら氷川は言った。この男を暴行したのはお前なのか――そう訊いたわけだ。
「ああ!? だったら何だってんだ!」
半ば捨身覚悟だから、言葉じりだけなら白井も負けてはいない。文句があるのかとばかりに、手にした鉄パイプを振り上げ威嚇する。だが、氷川の方はまるで焦りの色など皆無のように落ち着き払った無視状態だ。鉄パイプなど眼中にないといった調子で、裏を返せば例え振り下ろされようが簡単に止められるという余裕の表れなのだろうか。そう、先程白井の蹴りを片手だけで封じたように――だ。彼が今、気に掛けているのは頭上からのヘタレた攻撃などではなく、目の前に転がされている一生徒の容体の方というのがあからさまだ。
「じじい、てめえ! 無視こいてんじゃねえよ! 俺が本気でこいつを振り回すわけねえとかってナメてやがんの!? マジでぶん殴ってやるぞ、おい!」
鉄パイプを振り上げながら白井はますます興奮し、だが氷川は相変わらずの平静のままに、
「こいつをこのまま放っておけば、お前は殺人罪で刑務所行きになるぞ」
そう言った。つまり、すぐに処置を施さなければ危険な程の重傷という意味だ。氷川の真剣な顔付きからそれを悟ったのか、白井の方は今の今までしゃくり上げていた態度を僅かにひるませた。
「殺人って……こんな程度で大袈裟なこと……コいてんじゃねえよ……単にそいつが弱っちいだけじゃねえかよ……」
あの程度殴ったくらいでノびてしまった方が情けないだけだと言わんばかりだ。だが、相反してその声は僅かな震えを伴ってもいた。『殺人罪』という言葉に少なからず穏やかではいられないのだろう。
「だ、第一……ヤったのは俺だけじゃねえし……!」
「集団で殴る蹴るをしたってことか?」
「わ、悪りぃかよッ……!? つかよ、元はと言や、悪りぃのはその野郎の方だぜ!? そいつが兄貴のオンナに手ェ出したんだから、そんくらいされたって当然なんだよ! つか、俺は……いや、俺らは兄貴に言われて……」
氷川の険しい眼力に耐えられなくなってか、語尾にいく程にたじろぎを増し、言葉もしどろもどろだ。兄貴分であるヤクザの男たちに助けを求めん勢いで、白井は視線を泳がせた。
だが、氷川の方は容赦ない。
「このまま放置すればそうなるってことだ。もっとも、今の状況でも暴行と傷害に違いはねえがな」
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