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第10話
店員と客ってさ、ある種違う世界の存在だよな。
バックヤードとフロア
あるいはレジ台を隔てて
あるいはカウンターに阻まれて、容易には越えられない距離感がある気がする。
「そっすかね~、自分結構、コンビニのレジにかわいい子とかいたら声かけて仲良くなったりとかありますけどね~付き合うまではいったことないけど~あハハ~」
なぜ俺はこんな奴に自分の心情をうっかり吐露したりしちまったんだ……?と賢一は自家製の肉みそおにぎりを手にしたまま愕然とする。ケンさんて割と奥手な感じすか~?などと冷やかしてくる安田を冷ややかに眺めながら、金輪際こいつとは当たり障りのない無駄話しかしないと誓う。
「あーでもキッチンだと客にちょっかい出すの難しいか~!あーじゃーケンさん、ちょっと俺真面目に次シフト被るときまでに作戦考えてきますわ!じゃお疲れっした~」
安田うんこ漏らせ、と真剣に念じながら、賢一はよくわからないエネルギー溢れる19歳の背中を見送った。
賢一が料理に取り組む際の集中力はすさまじく、一切ほかのことが頭をよぎらない。目の前の作業、数手先までの段取り、店の状況客の様子。それだけが料理人として存在してるときの彼の頭の中のすべてだ。だから、安田にもらせと念をおくるほどむかついたことも、あの彼のことも、読みかけたまま止まっているハガレンのことも、その日の21時40分が来るまではまったく忘れていた。
からりと戸が開く。ベルが鳴る。「いらっしゃいませ」
ここまではもう、条件反射だ。
しかし入ってきた客の姿をみて、賢一は思わず手を止めた。
「青海区役所 戸籍課 斎藤正道」というIDカードが首にひっかかったままだった。いつもの彼は目が合った店員に小さく会釈をするのに、今日は真っ青な顔で、視線を自分のつま先あたりに落としたままだ。席が埋まっているのを見て、ぎょっとするほどの絶望がその顔に浮かぶ。腕時計に眼を落し踵を返しかけるのを見て、賢一はとっさに声にだしていた。
「ああ、あの!カウンターでしたら!」
少し驚いた顔で、芙季子がこっちをみる。
「……じゃあ」
かすれた声で「彼」―斎藤正道は言い、すとんとカウンターの椅子に腰を下ろした。
塩サバや海苔入りのタラモサラダなど、少し軽めの「夜定食B」をもそもそと平らげた彼は、閉店10時の数分前に席を立った。腹は満たされたというのに悄然としたまま、斎藤正道は店を後にする。賢一はキッチンの中で、自分のつま先が後を追おうとするのに気が付いて驚いた。
「行っておあげよ」
芙季子が親指で戸口を示しながら言う。ただでこういうイレギュラーを許す手合いの女ではないので、あとで何か埋め合わせを求められるとは思うが賢一にためらいはなかった。
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