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気付いた時には、ほんのりと鉄の味が口の中に広がっていた。
目の前には、楓の木が寂しげに佇んでいる。
別れ際に涙を見せないと決めていたはずが、すっかり泣いてしまった。
あまりの悔しさと情けなさに、拳を木に叩きつける。
鋭い痛みを感じたが、心の痛みに比べたらマシに思えてしまう。
再び、涙が嗚咽と共に溢れ出す。足が震えだし、ズルズルと膝から崩れ落ちた。
二人で腰を下ろしていた木の根元が、霞む視界の中に現れた。思わず、掌を這わせてしまう。
「前に進む為なんて‥‥‥洒落た言葉を吐いたけど、あんなの強がりでしかない」
制服のズボンに雪が染み込んできて冷たい。それでも立ち上がれずに、顔を俯かせる。
「敏彦さん‥‥‥僕は貴方が好きなんです」
本人には言えなかった言葉が、口をついて出る。
「好きで堪らないんだ。‥‥‥これから先も、ずっと」
たとえ、自分が強いられた結婚をしたとしても、きっと胸の奥には敏彦の姿を思い描くのだろう。
「僕も俊平が好きだ」
声と共に少し重い感触を背に感じた。
俊平は驚いて顔を上げると、敏彦が目元を赤く染め立ち尽くしている。自分の肩に釣鐘マントがかけられていた。
そこで自分が、詰襟の学生服しか着ていないことに気づきハッとする。
「君が忘れていったから持ってきたんだ。最後にこの場所を見ていこうと立ち寄ったら、君の姿を見つけて‥‥‥」
敏彦が言葉を詰まらせ、じっと俊平を見下ろしている。
「僕もきっと君を忘れられないだろう。だから――」
俊平は敏彦に腕を捕まれ立ち上がる。体中が鈍く痛み、少し顔を顰める。
「僕を信じて、待っていてはくれないだろうか?」
どういう意味だか分からず、呆然とした顔で敏彦を見つめる。
「時期が来たら君を迎えに来る。必ずや便りも出す。だから……そんな顔しないでくれ」
痛々しい表情をした敏彦の冷たい手が、俊平の頬に触れる。
「……良いんですか?」
「ああ。君のあんな姿を見てしまったら……抑えきれなくなってしまった」
俊平の涙で腫れた目元を、敏彦の指先が優しく触れた。
「……さよならと言わなくて良かったです」
俊平は口元を緩くあげる。罪悪感がなかったわけではない。でもそれ以上に、喜びが打ち勝っていた。
「そうだな。言わなくて正解だった。これで、今生の別れではなくなった。あの本は君に返そう」
敏彦も柔らかい表情に変わる。出会った日と同じ、あの初夏の爽やかな微笑みだった。
その表情に、今まで抑えていた感情が弾けだす。
気づいたときには、敏彦の胸に飛び込んでいた。
「それなら尚更、あの本は貴方が持っていてください。そして――」
俊平はゆっくりと顔をあげると、敏彦は驚いたように目を見開いていた。
「次に会う時に、返しに来てください」
「……ああ。分かった。約束する」
敏彦が優しく微笑み、背に回していた腕に力を込めた。
俊平の頬に涙が伝う。それでも頬は緩んでいた。
「泣くなよ。日本男児だろ」
「これは嬉し涙です」
「泣いていることには、変わりないだろ」
「意味合いが違いますから」
くだらない会話なのに、お互いに笑みがこぼれてしまう。
何年かかるか、何十年かかるか分からない。それでも、ここで待ち続けようと俊平は心に誓う。
愛しい人との思い出を噛み締めながら、移り行く季節を映し出すこの木の下で――
終
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