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「明日の夕刻に、ここを発つ」
情事を終え、布団に潜り込んだ敏彦がポツリと言葉を零す。
「はい」
「見送りには来なくていい」
「……分かりました」
お互いが辛くなるのは、目に見えて分かっていた。
別れ際の駅で取り乱しでもしたら、とんでもないことになるだろう。
「今まで、ありがとう」
「……こちらこそ、ありがとうございました」
微かに声が震えてしまう。それでも涙は流すまいと、俊平は心に決めていた。
唇を痛いほどに噛み締め、ぼんやりと見える天井の木目を見つめる。
分かっていたはずだ。辛くなることも、苦しくなることも。
それなのに、一時の甘い誘惑に負けてしまったのだ。その代償が今、返ってきただけだ。
自分だっていずれは、敏彦と同じように親が決めた相手と結婚することになるだろう。
これは、逃れられない運命なのだから――
翌朝。隣で眠る敏彦を起こさないように、俊平は寝床から這い出る。
寒さで思わず身震いし、浴衣を胸の前でかき合わせつつ窓に近づく。
外は雪が薄っすらと積もっていて、骨に染みるような寒さにも納得がいった。
俊平は窓硝子に、白い息を吹きかける。
震える指先で、愛しい人の名前を書き連ねていく。
――村坂 敏彦
もうこの名を呼ぶことも、見ることも一生ないだろう。
涙が自然とこぼれ落ちる。泣かないと決めていても、堪えきれなかった。
嗚咽をこぼすまいと、唇を強く噛みしめる。
「朔太郎の詩と一緒だな」
敏彦の声が背後から聞こえてくる。
振り返りたくても、涙を流している姿を見られたくなかった。
どちらにしても、窓硝子に自分の姿が映っている。敏彦はすでに気づいていて、あえて触れないのかもしれない。
「……はい」
背後に近づいてきた敏彦に抱きしめられ、俊平は川が氾濫したように涙が溢れ出す。
「も、もし……僕が女に生まれていたら……」
震える唇で言葉を紡ぐ。意味をなさないことだと、頭の中で分かっていた。
それなのに、言葉が唇の端から溢れ出る。
「……貴方と結ばれていたのでしょうか?」
震える語尾と共に、嗚咽が溢れる。
困らせることは分かっていた。それでも問いかけずにはいられない。
来生というものが本当にあるのだとしたら……今度は女として生まれ、敏彦と結ばれたいと思ってしまう。
少しだけ、心中してしまう人達の気持ちが分かる気がした。
「……そうだな」
ポツリと呟かれた言葉は、同意なのかそれとも同情なのか俊平には分からない。
そっと、俊平は敏彦から離れると、風呂敷から一冊の本を取り出す。
「これは貴方に差し上げます」
萩原朔太郎の『月に吠える』を敏彦に差し出す。
「でも、これは君の宝物だろ」
敏彦は狼狽え、視線を彷徨わせる。
「良いんです。貴方との思い出の詰まった本を手元に置いていては、僕は前に進めそうにありませんから」
俊平は泣き腫らした目元で、敏彦を見つめる。
複雑な表情で敏彦が、その書物を受け取った。
「別れの言葉は言いません。お元気で」
「ああ。ありがとう」
これで良かったのだ。俊平は佇む敏彦を残し、一階に降りると身支度を整え家を出る。
一面銀世界とはいかないまでも、それなりに積もっていて、土が白く染まっていた。
重い足を無理やり動かし、歩みを進める。
本当は駆け出してしまいたかった。
一刻も早く、この場所を離れ長い夢だったのだと思いたかった。
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