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第1話 優希と時臣
数冊の本を抱えていた宮野優希(みやの・ゆき)は、窓を叩く小さな音を聞いて思わず振り返った。見れば、ポツリポツリと小さな水滴が窓を濡らしている。
ああ、雨か――。
優希は納得がいった。先ほどから軽い頭痛がしていたのだ。この頭痛は気圧が関係しているのだろう。
始めは小さかった雨音が、次第に大きくなっていく。それを階段の踊り場でぼんやりと窓を眺めていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。長身で肩幅が広く、ひと目で鍛えられた身体なのだと分かる。男は焦げ茶色のスーツにかかった水滴を払いながら、正面にある階段を見上げた。そこに立つ優希の姿を見つけ、柔らかく微笑む。
「ただいま、優希」
男の名は宮野時臣(みやの・ときおみ)。優希の父親だ。
「本降りになる前に帰って来られてよかった」
時臣は窓から外の様子を伺って安堵のため息をついた。恋愛小説家である時臣は、この家から少し歩いたところにある喫茶店で次回作の打ち合わせをしてきたのだ。出かけるときは晴れ間が見えていたくらいなので、当然傘は持っていなかった。
「おかえりなさい、父さん。次の作品の話はまとまった?」
「ああ。いい方向に進みそうだよ。もっとも、物語のラストを少し、変えなければならないようだが……ところで、お前は何をしているんだ?」
本を抱える優希を見て、時臣が尋ねた。すると、優希は悪戯っぽく笑って答える。
「本を読みたくなって、ちょっと借りてきちゃった」
「また書斎へ勝手に入ったな?」
「だって本が山ほどあるんだもん。僕、父さんの書斎がこの家の中で一番大好きなんだ」
時臣は笑みを崩さないまま「そうか」とだけ答え、スリッパに履き替えて階段を昇った。そしてすれ違いざま、時臣は自分より十センチは背の低い優希の頭を撫でてやる。
血が繋がっているというのに、二人の容姿は全く似ていなかった。優希は母親に似て小柄で、顔立ちも中性的だ。顔立ちも身体つきも、何もかもが男らしい時臣とは全く違っていた。
白い肌に、人懐っこい真ん丸な目。薄い唇にすっと通った鼻梁。今年で大学四年生になるが、コンビニへアルコールを買いに行くと年齢確認を要求されることがあるくらい、幼顔だ。
「今からまた仕事?」
「ああ、続きを書くよ」
「そっか。無理はしないでね。何かあったら呼んで」
「ああ、いつもすまないな」
時臣はそのまま仕事部屋である彼の書斎へと向かった。乱暴に昇っているわけではないのに、どす、どす、と少し大きな足音がする。
――あの見た目で、恋愛小説家なんだよね……。
いつものことだが、それにしてもギャップが激しい、と優希は思っていた。時臣は、第一線で活躍する売れっ子作家とまではいかないが、一定のファンを持ち、サイン会を開くほどには人気がある。が、繊細な女性の心を描く作風と、まるで虎のような獰猛さを感じさせる風貌との落差に、ファンは皆驚かされるのだ。ペンネームは、秋空 時。この名前からも、まさか屈強な男が名乗っているとは誰も思わないのだろう。たまに女性と間違えられて、ファンから可愛らしいぬいぐるみの贈り物が送られてくることもあった。
そんな時臣の趣味はトレーニングだ。この家には、時臣専用のトレーニングルームがある。とはいえ、そこまで本格的なものじゃなく、ルームランナーやベンチプレスが置かれているだけで、あとは床で腹筋や腕立て伏せなどをしているようだ。執筆に行き詰まったら、そこで運動して気分転換する。無心になって身体を鍛えていると、いいネタが思いつくらしい。
「僕には、よくわからないな」
幼い頃から病気がちだった優希は、時臣のトレーニングにはついていけなかった。
以前、「お前もやってみるか?」と言われて試しに挑戦してみたが、腹筋はわずか十回でギブアップした。
はぁはぁと荒い息をしながら横たわっていると、時臣が上半身裸になって見せつけるように腕立て伏せを始めた。
その時の、時臣の引き締まった身体に心底惚れ惚れしたのを覚えている。同時に、苦い劣情を覚えたことも。
『だ、大学の課題があるの忘れてた! 早く終わらせないとっ……』
『そうか? 残念だな。お前がひいひい言うところを見たかったんだが』
優希は軽口を言う時臣に背を向けて、逃げ出すようにトレーニングルームを後にした。
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