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第1話
春。
眩い穏やかな日差しと、暖かい微風。
春独特の甘く切ない匂いが鼻をつつく。
そんな中で、ゆったりとした曲調が特徴のショパンのノクターン、第2番、変ホ長調が、放課後の誰も居ない静かな音楽室に響き渡っている。
まだ少年がピアノを習い始めたばかりの事、兄の京乃章也(きょうのふみや)から練習曲としてもらった大切な曲。
こんな名曲を弾いているのは、薄めの金色の髪の毛に、露草色の瞳をした、ごく普通の高校生、京乃琳音(きょうのりお)。
先月の10日から高校2年生に進学し、去年と同様に人との関わりを自分から拒絶。
放課後の誰も居ない音楽室で一人でピアノを弾き、自分の殻に閉じ籠って生活を続けている。
人生なんてあっという間に過ぎていて、気が付けば章也は大学生に、琳音は高校生に成っていた。
ピアノは3歳の頃から今までずっと続けていて、コンクール等では安定の金賞。
嬉しくもなければ、達成感も沸いてこない。
だけど、ピアノは自分と家族を繋ぐ唯一のモノであって、心を落ち着かせる魔法の道具。
だから、好きでもないピアノを続けているのかもしれない。
そんなことを考えながら弾いていると、いつもは間違う事のない場所で間違ってしまい、思わず手を止めてしまった。
はぁ……とため息をつくと、間違えた場所からもう一度と思い、鍵盤に手を掛けた。
するとどこかで、“もう一度弾いたところで何も得られない”と思う自分が居て、もう一度弾こうとして居た自分を止めた。
まだ弾いて欲しいと云うようにノクターンが脳裏で響き渡り、琳音は混乱に陥った。
「焦るなよ。また倒れるぞ」
「…………!」
かっこよくて、聞き慣れた安心する声が聴こえ、琳音は驚きのあまりその人に振り返った。
188㎝と云う長身に、その人を格好良いと錯覚させる筋の通った鼻と輪郭。
首筋から腰にかけてのラインが最高にエロくて、女子がキャーキャー云うのも納得が行く。
瞳は透き通るような翡翠色で、髪の毛は光に反射して青色に見える、綺麗な銀髪。
ずっと見ていると吸い込まれそうに成るほどに綺麗だった。
日本人とは思えない程に顔が整い、見る人誰でも魅了するほどの美貌を持っている。
その人は、英語の教師であり、琳音のピアノの講師でもある、碧波瀬名(あおなみせな)だった。
「瀬名」
「先生は?」
「瀬名……先、生……」
「はい。良くできました」
「…………」
子供を甘やかすように頭を優しく撫でられ、ふんわりと微笑まれると、胸の奥から暖まるような感覚がした。
だけどその感情は胸の内側に隠しておき、誰にもバレないようにひっそりと喜んだ。
感情表現が得意ではない琳音は、友達が少ない分、人とあまり喋らなくなり、気が付けば人見知りになっていた。
琳音が喋れる相手は極僅かしか居なく、鬼のように怖い母親と、優しい兄の章也、幼馴染みの西條律(さいじょうりつ)、琳音と同じで寡黙な父親、そして今目の前に居る瀬名だけ。
瀬名に関しては、ピアノを始めて4年後の今日のような天気の日に、兄が、「今日からお前の講師だぞ」と云って突然連れてきたのが切っ掛け。
始めは警戒していた所為もあり、なかなか練習には成らなかったが、瀬名が暇潰しで弾いていたところを見て、琳音は一発で心打たれたのだ。
あの時弾いていた曲は微かに覚えてはいるが、曲名は知らない。
そんな曲をコンクールで弾きたいと、その頃から強く願ってはいたものの、まだ幼かった所為もあり、断られてしまった。
元々章也と歳が離れていた所為もあり、幼かった琳音は瀬名がまだ高校生だと云うことを知らずに居た。
知ったのは小學4年生の頃だったが、瀬名と章也はもう成人していた。
瀬名が成人してからは、あまり時間の都合が会わず、練習はほぼ大嫌いな母親と一緒にやっていた。
そして高校生になり、瀬名に憧れを抱いていた琳音にとって、同じ學校に居たと知ったときは心の底から嬉しかった。
「ノクターンはもうお前にとって簡単すぎなんじゃねえの?」
「…………そう」
「もっと難しいの曲弾けるだろ」
「…………」
実を云うと、今の瀬名はそんなに好きではない。
昔の瀬名はもっとピアノに敏感で、ピアノが誰よりも大好きだったはずなのに、どうして今は英語の先生なんかをやっているのかが判らなかった。
逢えなかった期間に、何があったのかは知らないが、瀬名からピアノと云うものを避けているような気がして成らなかった。
「…………判らない……」
乾ききった声が暖かな春の中に消えて無くなり、部活中の人達の声が音楽室の空気を冷たくした。
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