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 私は陰間(かげま)を買った。  彼のその身が欲しかったわけではない。ただその子の未来を、可能性を、守りたかった。  しかしその子の存在が、私の人生にこんなにも深く根を下ろすものになるとは思いもよらなかった。  身も心も、こんなにも深く繋がり合うことになろうとは。  ❀  私は江戸深川にある、呉服問屋の主人である。  私が親からこの店を受け継いだのは、まだ少年の頃であった。  両親は、物見遊山に出かけた帰り道、不運なことに、辻斬りに遭って亡くなってしまった。当時の私は、それを不幸な出来事だと思いながらも、すぐには実感が沸かず、ただただこの店の行く末や、自身の人生の今後の流れが大きく変わることなどについて、考えあぐねるばかりであった。  それは、両親が私に課してきた教育の賜であろう。  近江の国から江戸へやってきた祖父母の作った呉服屋は、両親の代でさらに大きく成長した。その成果の示す通り、両親はとても仕事熱心だった。子を成す余裕もなかったせいか、後継は私一人しか産まれなかった。嫡男の私を、早いうちから一端の商人として育てようと考えるのも無理は無い。  しかし、両親の死はあまりに早かった。私は見習いとしてずっと店に出ていたため、見よう見まねで仕事をこなせはしたものの、強欲な親戚たちに店は貪られる一方であった。各方面にできていた得意先は次々に消え、本当に古くからの付き合いがほそぼそと続くだけとなっていった。  店で働いていた者たちも、次から次へと暇乞(いとまご)いを申し出てきた。それも当然であろう。放っておいたら傾いていく一方のこの店に、何も拘る義理もないのだから。  しかし、両親が丁稚奉公から育て上げた一人の男だけは、私にどこまでも手を貸してくれた。その男は縁談も両親が整え、その男の赤子には両親が名を与えた。そして何よりも、私を赤子の頃から見ていたためであろうか、私を非情にも打ち捨てていくことができなかったらしい。  その男の尽力のお陰で、私の店はある大得意先を得ることになった。  吉原に軒を連ねる遊郭の一つ、玉屋(たまや)。  若い私は知る由もなかったが、父は玉屋に随分と入れ上げている花魁がいたらしいのである。その伝手(つて)を辿って、彼は玉屋に豪奢な着物を卸す仕事を得てきたというわけだ。  そのおかげで私は店を畳むことは免れ、それどころか以前にも増して店は繁盛した。色街に向けて仕入れていた鮮やかできらびやかな着物が、思いの外町の若い女たちに受けたのだ。  大柄なものばかりではなく、質のいい布地に金糸や銀糸をさり気なく織り込んだものが流行り、いささか高価ではあったものの、それは飛ぶように売れた。噂が人を呼び、遠方から買い付けに来る者もいるほどだった。  少しでも安価に押さえるため、反物の絵柄に付いては全て私が考えた。もともと、絵を描くのが好きだった私は、密かに絵師になりたいと願ったこともあったため、その仕事は思った以上に面白く、なかなかに評判が良かったのだ。  かくして、あっという間に十数年が経ち、気づけば私は齢二十五を超えていた。ちらほらとやってくる縁談も、忙しさを理由に断り続けてきたつけが回ってきたためか、この歳でまだ女と情を交わしたことすら一度もない。  仕事柄、遊郭に出入りすることが増えたものの、それはあくまでも仕事であり、女達の姿を見てもこれといって何も感じなかった。数回はもてなしを受けて、そのまま床入(とこい)りをしたこともあったが、それはお互いに仕事だとどこかで割り切っているのだから、どちらも醒めたものである。  情欲に溺れることもなく、床入りした女からも好みの絵柄を聞いたり、今好んでいるものを聞いて仕事に生かした。  そんな私だからか、女達も次第に私を男としては見なくなっていくのが分かった。それはそれで気楽なもので、まるで茶飲みの友である。

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