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一 花巻

「旦那、新しい布地が仕上がって参りましたよ」  とある真夏の昼下がり、先に述べた私の片腕・紋吉(もんきち)が反物を幾つか抱えて奥座敷へと上がってきた。仕事部屋兼自室にしているその部屋で私は文机に向かい、新たな図柄を考えている最中であったが筆を置き、紋吉の方へと向き直る。 「おお、これは……美しい仕上がりだ」  まるで、夜空をそのまま布地にしたかのような西陣である。それを手に取り、うやうやしく表面を撫でた。とろりとした光沢のある、なんとも美しい出来栄えだ。 「これなら燭台の明かりにも映えるだろうな。ちらちらと揺れる炎を受けて、さぞや美しいことだろう」 「へぇ、目に浮かぶようですな」  紋吉も満足気に頷いて、にこにこと顔を綻ばせる。 「早速仕立てさせて玉屋へ持って行こう。太夫になったばかりの花巻(はなまき)に祝いの品として」 「おお、花巻さんもついに太夫ですか。ご出世なさった」 「そうだな、昔のようにおいそれと床入りしてはもらえぬ存在になったな」 と、私は冗談交じりにそう言って笑う。 「貴雪さんは欲がなくていけねぇな。あんなきれいな女の方、早いうちにもらっておいたら良かったのに」 と、紋吉。 「そうだな、でもあの頃は、それどころじゃなかったから」  あまり欲のない私のことが新鮮なのか、色街の女達からは純粋な恋心を向けられることも幾度かあった。しかしそれに応えることが出来なかったのは、軌道に乗り始めた商売のことで頭がいっぱいで、色恋沙汰は正直煩わしいと思っていたからだ。  それに、彼女たちを落籍(らくせき)させる金など、当時は到底持ちあわせてはいなかったのだから、土台無理な話である。 「しかしまぁ、そろそろ縁談を受けてみるのはいかがですか」 「……そうだなぁ」 「貴雪(たかゆき)さんもいい年だ。お店も順調。何をためらうことがあるんです」 「別に……ただ気が乗らないだけだよ」 「あんたの絵は仕事になるが、あんまりそればかりに没頭してたら、ほんとに一人きりで一生終えちまうよ。このお店も、跡継ぎがいなくちゃ」  こういう話になると、紋吉は途端に口やかましい姑のようになる。私は苦笑して、こくこくと頷いてみせた。 「まぁ、考えていないわけじゃないから」 「いっつもそう言う。まったく、やっぱり若いうちから苦労しちまったのがいけなかったかねぇ」 「そんなことはないさ。お前にも感謝しているよ」 「そりゃ分かってますけどねぇ……。あぁ、いけねぇ。俺ときたらついつい世話好きの母ちゃんみたいに」 「ははっ。早いとこ仕立屋に持って行ってくれないかね。次の絵柄ももうすぐ仕上がるんだが」 「おっと、承知しやした。花巻さんに似合うような、色っぽいのを拵えてもらって来ますよ」  ちゃきちゃきと紋吉は立ち上がって反物を抱きかかえると、いそいそと部屋を出て行く。 私は笑顔を浮かべたまま、働き者の奉公人の背中を見送る。  ✿ ✿  思い通りの着物が仕上がり、私は紋吉を連れて色街へとやって来た。  紋吉の妻からは、私が毎度毎度彼を伴い、花魁に会いに行くことが気に食わないとの苦情をしばしばもらっている。そのため、三回に一度はもっと若い奉公人を連れて行くことにしていた。  しかし花巻と紋吉は知らぬ間柄ではない。祝いの言葉を直に伝えたいという、紋吉たっての希望もあり、まだ日のあるうちに色街へやって来たのだ。  昼間の色街は、普通の街と何ら変わらないように見える。化粧をしていない女達がうろうろと歩きまわり、道を掃き清めたり水をまいたり……ごくごく当たり前の生活が営まれている。  ただ、昼間の女達は皆どこか暗く、太陽を忌み嫌っているようにも見える。それが少し、私の胸を痛ませる。 「あらあら、旦那。来てくれるなら晩にやって来てくれたらいいものを」  玉屋の暖簾をくぐると、奥から女将が出てきてそう言った。玄関先に膝をつき、丁寧に私に頭を下げた。  上がり(かまち)に腰掛けながら、私は軽く汗を拭う。 「いやいや、今日は届け物があっただけだから」 「冷たいお茶をどうぞ、紋さんも」 「あ、こりゃありがたい」 と、紋吉も汗をかいた冷たい湯のみを受け取る。  いつものように注文の品を渡し、最後に花巻への祝の着物の包を手渡すと、女将は目を丸くして私を見た。 「痛み入るねぇ。こんないいもんもらって、ただで帰す訳にはいかないよ」 「いいんだ。私も彼女には世話になったし」 「お礼だけでも言わせるからさ、ちょっと上がっていっておくれよ」 「いや、本当に……」 「駄目駄目! ほら、紋さんも下で甘いもんでも食べていっておくれ」 「ほんじゃ俺はお言葉に甘えて」 と、紋吉はさっさと草履を脱ぎ、砂を払って玉屋の支度部屋へと上がり込んでいく。慣れたものだ。  私は一人玄関に座っているわけにもいかず、女将の言うとおりに階段を使い、二階の客間へと歩を進めた。   「あらぁ、珍しいお客様だこと」  二階の客間の唐紙を開け、外を眺めていると女の声がした。振り返ると、素顔のままの花巻太夫が真っ赤な小袖姿で立っている。  たっぷりとした髷は、結い上げたばかりなのか艷やかで、化粧を施していなくともその素肌は白く美しい。素顔に真紅の小袖を着こなせる女も、ここいらでは少ないだろう。 「……太夫になられたとのこと。おめでとうございます」  私は丁寧に頭を下げると、脇に置いていた包を彼女の方へと押し出す。畳の上を滑らせる音が、しんとした部屋に響いた。 「お気に召すか分かりませぬが、お祝いの品にございます。今後共、私ども胡屋をご贔屓くださいませ」 「随分と他人行儀なご挨拶ね」  花巻は包みを開き、中から現れた美しい着物に目を輝かせる。嘆息とともに微笑み、白い指でその衣を撫でた。 「太夫なんて、私がおいそれと口をきける相手じゃないからね」  頭を上げながら私がそんなことを言うと、花巻は紅を指していない、少しばかり乾いた唇で微笑んだ。 「貴雪さんこそ、今や大商人の仲間入りでしょう。お互い歳をとったものね」 「あなたは、今でも充分お美しいよ」 「そんなことをさらりと言える人でもなかったでしょうに」 「ははは、こればかりは年の功かな」 「今もお一人なの?」 「ええ」 「今も女には興味がなくて?」 「そんなことはありませんが、何分忙しい身の上でね」 「いつもそう、昔からそればかりね」 「……すみません」  煙管箱を引き寄せて煙をくゆらせながら、花巻は少し寂しげな目をして私を見た。 「この着物の柄は……」 「私が、考えました。あなたに似合うようにと」 「そう。さすがね」 「お気に召していただけましたかな」 「ええ、嫌味なほどに」 「そうですか」 「お礼に、一夜を共にして差し上げますのに」 「いえいえ、滅相もございませんよ。今やあなたは、雲の上と言ってもいいところにおいでなのだから、そんなことを言っちゃいけません」 「……」  私が笑を浮かべたまま彼女の言葉を受け流すと、花巻は眉を寄せて怒ったような表情を浮かべる。  居心地が悪かった。  彼女の気持ちは、痛いほどに知っていた。だからこそ、会うのは避けたかった。 「つまらない男」 「……ええ、そうだと思います」 「若いころは、もう少し味のある男だと思っていたのに」 「買いかぶり過ぎですよ」 「……やっぱり、会うんじゃなかった」  花巻は、吐き捨てる様にそう言うと、乱暴に煙管から灰を叩き落とす。じゅ、と焦げる音がして、畳の一部が黒く変色していくのを、私は無言で見つめていた。 「帰って頂戴」 「はい、失礼しました」 「……この着物も、いらないわ」 「これは私が貴方にすでに差し上げたものです。貴方の好きになさってください」 「ふん……」  私がもう一度頭を下げてから立ち上がるのを、花巻はなんとも言えない顔で見上げている。言いたいことは山程あるのであろうが、それを今更口にするほど、彼女も子どもではないのだ。  しかし彼女の目元は赤く、今にも透明な涙がその頬を滑り落ちそうに見えた。  私は彼女の涙から逃げるように、再び頭を垂れて障子をぴったりと閉める。

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