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十五 会談

 その数日後、紋吉を伴って私は藍間屋を訪れた。  百両を包んだ風呂敷包みを後生大事に抱えた紋吉が、大きな身体を丸めていそいそと私の後をついてくるので、少し笑ってしまった。  向こうにも、今日私たちが訪問することは伝わっている。なつ江と一体どういう話になるのかということは、まだあまり想像がつかないでいた。 「ごめんくださいまし」  昼過ぎの気だるい時間、誰もいない見世の戸を開いて暖簾をくぐると、小奇麗に整えられた見世のどまんなかに宗次郎が腰掛けているのが見えた。  煙管をふかしながら片足を上げている宗次郎の不遜な態度に、紋吉がややたじろいだのが分かる。 「よぉ、旦那」 「どうも、お世話になっております」 「おっかさんと話しに来たんだな。奥へどうぞ」 「失礼致します」  私は丁寧にお辞儀をすると、宗次郎の脇を通りすぎようとした。しかし、がたんと椅子の倒れる音が響くと同時に、私は宗次郎に肩を掴まれていた。彼は私に顔を寄せ、私にだけ聞こえる声でこう囁きかけてきた。 「どうだった、あいつの身体は」 「……」  私はちらりと宗次郎を見て、少しだけ笑ってみる。 「……それはもう、美味でございましたよ」 「そうかい。あんたも結局、客の一人に成り下がったってわけか」 「もともと、私はそんな大層なものじゃありませんでしたから」 「ふうん」  宗次郎はぱっと手を離し、にやにやと笑いながら身を引いた。紋吉が対応に困っているのを見て、宗次郎はまた少し笑う。 「旦那んとこの奉公人か」 「はい。以後お見知りおきを」 と、紋吉も低くよく響く声でそう言い、頭を下げる。 「あんたのほうが、よほど貫禄があるように見えるな」 「よく言われます」  紋吉は慣れたもので、微笑んでそう言い返す。私も肩をすくめた。 「奉公人だが、私の恩人でもあるのでね」 「ふうん。あんたは徳に恵まれてたんだな。だから、清之介のことも助けてやろうって思ったわけか」 「助ける、ですか。それは少し違う気も致しますが……。あの子がそう思うなら、それでもいいのではないかと思いますよ」 「あいつはただ旦那に惚れちまっただけさ。優しくされることに慣れてねぇ餓鬼だからな、ころっといっちまいやがった。簡単なもんだったろ」 「……ご機嫌がよろしくないようですね」  剣のある物言いをする宗次郎の目を見据えてそう言うと、彼は笑みを引っ込めて煙を吸い込む。 「ま、好きにしな。俺にはもう関係ねぇ」 「……分かりました。では、失礼します」  今は、宗次郎の嫌味に付き合っていられる気分ではなかった。私は彼を捨ておいて奥へと進み、清之介よりも幼い少年が立っている座敷の前で立ち止まる。少年はそこで深々とお辞儀をした後、音もなく障子を開く。  そこにはなつ江が正座をして待ち構えていた。  今日も艶やかな着物に身を包み、真っ赤な紅をさして堂々としているその姿は、さすがに貫禄がある。私は指を揃えて一礼し、会談の場へと臨む。  座敷の隅に控える紋吉も、すこし萎縮しているように感じられたが、私は息を吸い背筋を伸ばしてなつ江を見据える。 「かねてよりお願い申し上げていた一件について、正式にお答えを頂きに参りました。清之介殿を、私胡屋主人、笹田貴雪に売っていただきたく、お願いにやって参った次第であります」 「……宗次郎から話は聞いていますよ。あの子に全てを任せていましたからね」  なつ江は静かで落ち着いた声をしている。彼女も煙管をふかしながら、真っ赤な唇を吊り上げた。 「あの子のこと、えらく気に入っていただけたとのこと。貴方はいくらであの子を連れ帰るおつもりでここへ来たのでしょう」 「こちらと致しましては、百両の用意がございます」 「あらまぁ、羽振りのよろしいこと。宗次郎は、あの子にはその半分以下の価値しかないと申してましたけど? 貴方はその倍をお支払いになるの?」 「私はあの子の頭脳や機転のよさ、商品の知識、それら全てをひっくるめて貰い受けようと考えております。ゆくゆく、商人として育てて私の店を手伝わせようとも考えております。藍間屋様におかれましても、清之介どのはまだまだこれからが稼ぎどきであったことでしょう。いい時期に私が貰って行ってしまうのですから、これくらいの額で然るべきかと存じます」 「そうね、あの子はこれからが盛りの花。でも、花巻さんがおたくに清之介を遣ってからというもの、どうもあの子は調子が出ないと聞いています」 「……」 「ま、よござんしょ。お譲りしましょう。うちにはまだまだ多くの陰間がおります。お客の不興を買う前に、貴方に貰われていくほうがあの子にとっても、見世にとっても幸運なことですわ」 「……ありがとうございます」 「百両の価値がおありでしょうかね」 「私にとっては、当然の額でございます。お納めくださいませ」  紋吉は、風呂敷包みから白い懐紙にくるまれた重たい塊を取り出し、私に恭しく手渡した。そして私は、それを畳の上に置き、そっとなつ江の方へと滑らせる。  なつ江は満足そうにその包を受け取ると、その場で懐紙を開いて中を改めた。 「……確かに」 「今後、胡屋のほうも宜しくお引き立てくださいませ」 「そうですわね。わたくしたちの間には、二重のつながりができたことになりますわ。こちらこそ、今後ともよしなに」   なつ江は軽く首を折って会釈すると、煙管を咥えてふっと煙を吐き出した。 「清之介」 「はい」  すっと右手の襖が開き、手をついて頭を下げている清之介がそこにいた。ずっと成り行きを聞いていたのだろう。 「さぁ、あんたはもう、この旦那のもんだ。さっさと行っちまいな」 「はい。お世話になりました」 「その若さでいいとこの若旦那をたらしこめるとは、我ながら恐ろしい子どもを育て上げたもんだよ」  吐き捨てるようななつ江の言葉が痛いのか、清之介はじっと動かずに、畳に額を擦りつけたまま黙っている。なんとも言いがたい重苦しい空気に耐えかねた私は、紋吉をちらりと見てから、腰を浮かせた。 「では清之介、行くぞ」 「はい」  私に声をかけられて初めて、清之介は顔を上げる。つんとそっぽを向いているなつ江の方をしばらく見つめていた清之介であったが、諦めたように目を伏せ、私を見て立ち上がった。  そして見送りもないまま、藍間屋を出て行く。  荷物も何もなく、本当に身一つで。  紋吉が藍間屋の扉をぴたりと閉めたところで、清之介は大きく溜息をついて私を見上げてきた。 「……ありがとうございます」 「何を改まっているんだ。さぁ、帰ろうか」 「……はい」  清之介の背を押して、私たちは真昼の吉原の道を進み、大門をくぐる。しばらく黙って歩いていたが、清之介はふと立ち止まって真っ赤に塗られた大門を振り返った。  つられて私と紋吉も立ち止まり、清之介とその向こうに見える大門を見遣る。彼が今、一体どういう心境でそこに佇んでいるのか、私には想像がつかなかった。 「清之介。どうしたんだい」 「いや、なんでもねぇ」 「……そうだ、紹介しよう。こちらは私の片腕の紋吉だ。私の育ての親のような存在でもある」 「育ての親?」  清之介はじっと紋吉を見上げて、目を瞬いた。紋吉はやや照れたように笑みを浮かべると、清之介の頭をぽんぽんと撫でた。 「色々大変だったみてぇだが、今日からは貴雪さんを親と思って、しっかり勉強するんだぞ」 「はい」  清之介は素直にそう言って頷くと、私達二人に向かって深々と頭を下げた。 「よろしく、お願い致します」  私は紋吉と顔を見合わせて、少し笑った。清之介は顔を上げ、少しはにかんだように着物の袖をいじる。 「さ、帰ろうか」 「あ、あのさ……この先の茶屋で宗兄と落ち合う約束があるんだ。さっき言われたんだけど」 「宗次郎さんと?」 「うん、一人で来いって」 「そうかい。……うん、行っておいで」 「あとでお店の方に行くから……」 「行くじゃないだろ、もうあそこはお前の帰る場所だ。母屋を開けておくから、そこで待っておいで」  私の言葉に、清之介は少しばかり目を見張り、そして破顔した。 「……はい」  たたた、と駆けていく清之介の背中を見送りつつ、紋吉は懐手をして顎を撫ぜる。私たちはゆっくりと歩いて帰路についた。 「貴雪さん、一応聞いておきたいんだが」 「なんだい?」 「親戚って話は無理があるんじゃねぇかな。あの子は陰間だ、あんたの血筋にもあまりよくはない経歴だ」 「……まぁね」 「それにあの子の雰囲気、やっぱどこか常人とは違うもんがある。うちで修行していく中で、変わっていくもんだろうとは思うが……」 「やっぱりそう思うか」 「色気というか凄味というか……目つきかな、平三とは全く違う。人間の裏側を、あの歳で全部見ちまったっていう顔をしてる」 「鋭いなぁ、紋吉は」  私が苦笑すると、彼は私の横顔をじっと見て更に問う。 「下手すりゃあんたも、ああなってたかもって思ったのかい?」 「……まぁね。そりゃ、さすがに陰間にはならなかったろうが、孤児の末路なんていいもんじゃないだろ」 「そりゃあそうだがね」 「私は、紋吉にも捨てられると思っていたからな。他の奉公人と同じく、店を捨てて何処かへ行ってしまう。私は身ぐるみ剥がされて、一人きりになる……そう思った夜は眠れなかった。でもあんたは、私を助けてそばに居てくれたろ」 「そりゃあ、先代にも世話になってたし、あんたのことは赤ん坊の頃から知ってんだぞ。そう簡単に見捨てていけるわけねぇ」 「ありがたかったよ、本当に。……清之介が初めてうちに来た時、彼の目つきに私は正直少しぞっとしたんだよ。今お前が言ったようなことを、私も感じた。追い返そうにもそれができなかった。だから話をしてみたんだ」 「ふうん」 「話してみると、殊の外明るい面もあるし、頭もいい。外の世界への憧れも感じた……出会ってしまった以上、この子をほうっては置けないと思った。すれてはいるが、いい子だしね」 「うん、それは何となく分かる。あのさ、それでその……あんたはあの子と……寝たのか?」 「え?」 「いやさ、これからもそういう関係が続くんだったら……嫁がなかなかまた来ねぇかなと思ってさ」  紋吉は言いにくそうに足袋の先を見下ろしながらそう言った。私はどう言おうか迷ったものの、一息ついてこう答えた。 「一、二度、そうなった」 「……そうかい」 「でも今後もそうなるとは思ってないよ。あの子をそういうふうに扱いたくないんだ」 「そうか」 「私たちは吉原に出入りしている以上、どんな不名誉な噂も覚悟してきた。それは今後も変わらないさ。あそこの旦那は陰間を身請けした変態野郎だと言われても、まぁ仕方がないし、それもはじめから覚悟の上だ」 「そうかい。まぁそんな噂はすぐに消えらぁ。けど、店の中ではどうかな」 「そうだな……初めは彼をからかう者もそりゃいるだろうが。初めはやはり、陰間ということは伏せないか。吉原で働いていた丁稚を貰い受けてきたと言っておけば嘘ではない」 「まぁ、そっちのほうがいいか」 「頼むよ」 「おう、分かったよ」  紋吉はからりとそう言って、その後は差し当たっての清之介の暮らし方ややらせる仕事のことを話題にした。  私はそれに応じながら、紋吉がすんなりと彼を受け入れ、今後起こりうる問題について考えてくれたことを嬉しく思っていた。  育ての親たる紋吉さえ私の味方でいてくれるのなら、何も怖くはない。  幼い頃からそう思っていたことを思い出し、私は一人微笑んだ。   +  清之介は宗次郎に指定された店の暖簾をくぐって、店の中を見回した。一番奥の座敷で紫煙が立ち上っているのを見つけて、清之介はそちらへと歩を進める。  「よぉ、来たか」  宗次郎は団子を食いながらにっと笑うと、手招きをして清之介を自分の向いに座らせる。清之介は硬い表情のまま座敷へ上がり、正座をした。 「……兄さん」 「おいおい、そう堅苦しいのはもうやめてくれ。よかったな、すんなりおっかさんの許しが出てよ」 「うん……こんなにあっさり事が運ぶとは思わなかったよ。ひょっとして宗兄が……」 「もうんなこたぁどうでもいいだろ。それよりほれ、これはお前のだ」  じゃら、と宗次郎は机の上に布袋を置いた。重量の有りそうな、重たい音がする。 「これは?」 「今までお前が稼いだ金だ。そりゃあ、何割かはすでにおっかさんの懐だから、こんだけしか残ってねぇけどさ」 「……これを、俺に?」 「あぁ。手ぶらで、ってのも寂しいだろ」 「……」  清之介はしげしげと宗次郎を見つめた。宗次郎は居心地悪そうに顔を背けると、煙管をまた一つ吹かす。 「早く取れ。いらねぇのか」 「……宗兄。ありがとう。でも俺、これは要らない」 「なんでだ」 「身体で稼いだ金は、置いて行きたい。これは店のために使ってくれよ。俺を長い間、置いてくれたお礼になるといいんだけど」 「全部捨てて、一からやり直すってか」 「……うん、そうしたいんだ」 「ふうん」  清之介の真摯な表情をしばらく見据えていたが、その視線にぶれがないことを認めると、宗次郎は微笑んで布袋を懐にしまう。そして、手を伸ばして清之介の頭をわしわしと撫で回した。 「良かったな、いい男と知りあえて」 「うん」 「花巻さんにも、感謝しねぇと。というより、恨まれないようにしねぇとな。姐さんも旦那には相当惚れ込んでたから」 「うん……」 「まぁ吉原のことは俺に任せとけ。お前はせいぜい、旦那に尽くしな」 「……ありがとう、宗兄」 「お前は俺の可愛い弟だ。いつぞやはひでぇことを言ったが、やっぱり俺は、お前がこうしてまっとうな道を進めることが誇らしい」 「本当かい?」 「あぁ、本当さ。お前はここへ来た時から、少し毛色が違ったな。このままじゃ終わらねぇと思ってたけど、こんなに早く俺の元からいなくなっちまうとは思わなかったよ」 「……そうか」 「最後におまえにしてやらにゃいかんことがある」 「何?」 「立て、行くぞ」  宗次郎は爽やかに笑うと、清之介の背を押して通りへ出る。  賑やかな人通りを並んで歩きながら、宗次郎はずっと満足気な笑みを浮かべていた。  そんな兄の横顔を見上げながら、清之介は身軽になった身体で外の世界を歩む。

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