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一 日々

 夜風に紫煙が流れていく。  客との情事の痕が残る自らの手首を行灯の明かりにかざして眺めながら、菊之丞は深く煙管を吸う。  白い手首に、赤く縛られた痕。自ら望んで付けられた傷だ。 「……ったく、ぬるい責めしやがって」  そっとその傷に唇を寄せて、菊之丞は目を閉じ、片方だけ立てた膝に顔を埋める。はだけた着物を直すこともせず、物憂げに溜息をついた。  ✿  翌朝。  ふらりと食事処へ降りて行くと、既に二人の弟分が店の掃除をしていた。  まだ昼前だというのに生真面目なことだと、菊之丞は大あくびをしながら顔を洗うべく井戸端へと向かう。するとそこには既に先客がいた。 「あぁ、菊兄……おはよう」  泣いていたのだろう、清之介が腫れぼったい顔を井戸水で洗っている。  色が白いため、大きな目の縁を赤くしている様は痛々しく、そして儚げである。悲しげに眉を寄せ、潤んだ瞳で見上げられれば、その気がなくとも大概の男は惚けさせてしまいそうな、美しい少年だ。  しかし菊之丞は、そんな弟分よりも遥かに色香のある、妖しく美しい容姿をしているため、清之介の目つきにも動じることはないのである。  やや色素の薄い、艶やかな長い髪を緩く束ねて肩に垂らし、頬に掛かる結いそこねた長い前髪を、気怠げに耳に引っ掛ける。夜を生業とする陰間の仕事が長い菊之丞は、拔けるように白い肌をしている。  二重瞼の形の良い目を縁取る睫毛は濃く、長く、目を伏せただけで、ただならぬ色香を醸し出す。流れるように整った鼻梁と、紅く艶めく膨らみのある唇はいかにも柔らかげであり、誘うように微笑まれれば、どんな男をも絡め取ることが出来た。  菊之丞は、そんな男だ。 「……どうした、その顔」 「ちょっと……」 「客に泣かされたのか」 「うん……」  清之介は客を取り始めてそろそろ一年が経とうとしていたが、たまにまだ泣けてくることもあるらしい。気付けば齢十八になり、そんな感情などとうに忘れてしまった菊之丞からすれば、まだまだ清之介は甘ちゃんだと思う。  もっとも、まだ齢十四なのだから致し方無いことなのだが、齢十にも満たない頃から男の相手をしていた菊之丞には清之介にかける優しい言葉は浮かんでこない。  その代わり、ぽんと頭を撫でてやると、清之介は可愛らしく整った顔をやや緩めて自分を見上げてくる。 「……少し寝ろ」 「うん」  素直に頷き、店の中へ戻る清之介にも、ここ最近は上客がつくようになっていた。江戸でもそこそこに名の知れた呉服問屋・胡屋の若旦那、笹田貴雪だ。  その若旦那は、清之介を通じてこの陰間茶屋とも取引を持ち、菊之丞も何度か挨拶だの採寸だのと顔を合わせている。  初めは、物好きな坊だ……とどこか醒めた目で貴雪を眺めていたものだ。しかし付き合いが増えていくにつれ、その男の目にもどこか自分と似た、何かを一度諦めたような色を見つけてからは、少し貴雪が嫌いではなくなっていた。  店に品物を届けに来る貴雪と清之介のやり取りを見ていると、なんともほのぼのとした、客と陰間という雰囲気ではないものが流れている。まるですでに恋仲にでもなったかのような慈しみ深い目つきをする貴雪に、清之介もすっかり気を許して懐いている様子であり、それは少し、まだ気に入らない。  ここで五年という年月を共に過ごしてきたという連帯感は、どこか清之介を本物の弟のように思わせているからであろう。 「またあいつか、貫田の糞親父のせいか」  菊之丞は、日陰の湿った場所で煙管を吹かしている二階番の翁に声を掛けた。まるで常に影の中で生きているようなその翁は、大きく煙を吐き出して頷く。 「……そうです。いたく清之介を気に入っていてね。ああやって度が過ぎることをされることも増えてきた」 「ふうん……。美少年を痛めつけるのが趣味だなんていう屑野郎の相手は、俺の専門だったんだけどなぁ」 「若いほうがいいんだとさ」 「なんだ、そうかい」  菊之丞は肩をすくめると、手拭いで顔を拭って空を見上げた。いつもどこか晴れないその心とは裏腹に、今日の空はよく晴れていて、夏の終わりを感じさせるような高い雲が空には横たわっている。  こんな空を、見えた通りに清々しく感じられるようになることが、この先一生のうちに起こりうるのだろうかと、ふとそんなことを思う。 「宗次郎は?」  屋内に戻りしな、菊之丞は思い出したように翁に訊ねた。 「昨夜は大名屋敷に出張(でば)ってたから、そろそろ戻られるんじゃねぇですかい?」  嗄れた声で翁はそう言うと、よっこらせと呟きながら立ち上がり、菊之丞の脇をすり抜けて先に中へ入ってゆく。 「……そうかい」  菊之丞は誰にともなくそう言った。

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