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二 掌

 祭り囃子が、遠くに聞こえる。  この界隈でもっとも大きな神社で行われる秋祭りには、多くの人々が訪れる。  明々と灯った松明の火が、楽しげに闊歩する老若男女の顔を橙色に照らし、活気のある呼び声が響く、浮かれた夜だった。 「……っは……ん……んっ」 「おい、もっと尻を上げねぇか」 「あっ」  ばしっ、と尻を平手で強かに打たれ、汗ばんだ男の手が更に乱暴に腰をつかむ。  神社の裏手の雑木林は、橙色の明かりが届かず真っ暗闇だ。そんな場所で、蠢く影があった。 「あぅ……っ! あっ……!」  痛みはもう感じなかった。ただ、下腹に不快極まりない圧迫感があるだけだ。息が苦しくて、吐気を堪えながら、子どもは四つん這いになって砂利を噛む。 「……ふぅ」  ようやく果てた男の肉から解放され、その場にぐったりと倒れ込んだ。とろりと、尻から生温かいものが流れ出すのが気持ち悪い。冷えた土の匂いが、すんと鼻孔を刺激する。  子どもは腕を突っ張って上体を起こすと、男を見上げて言った。 「……金、寄越せよ」 「あぁ? 何だよ、誘ってきたのはおめぇだろうが」 「え、終わったら払うって言ったじゃねぇか!」 「んなこと言ったか?」  男は帯を締め直しながら、へたり込んだままの少年を見下ろした。まだまだ幼く、色の白い、女のような顔をした子どもだ。酒のあてでも買おうかと祭りをぶらついていたところを、この子どもに袖を引かれたのだ。  ――俺のこと、買ってくれねぇか。  形のいい大きな目に、悲壮にも見える決意を滲ませて、子どもはそう男を誘った。 「薄汚ぇ餓鬼が、とっとと消えな!」 「何でだよ! 約束が……!」 「触んな! 他所(よそ)へいけ!」 「あっ!」  さっさとその場を去ろうとした男の裾に縋り付く子どもを、男はまるで野良犬でも扱うように蹴り飛ばす。すると、着物をはだけさせて倒れ込む子どもの大きな目に、じわじわと怒りが滲んだ 「何だぁ? その生意気な面は!?」 「あぅっ!!」  大の大人に子どもの力が敵うはずもなく、何度も腹や胸を蹴られて蹲ってしまった。 「……へっ、黙ってりゃお互いいい気持で済んだのによぉ」 「……うぅ」  男はにやりと卑しく笑い、その場を去ろうと踵を返す。しかし、雑木林を抜け出そうとした所で、祭の灯を背にした誰かに道を塞がれた。 「誰だ、どきやがれ」 「おい、今何やってたんだ」 「あぁ? てめぇにゃ関係ねぇだろ」 「……そこのがきに何してたんだ」 と、影が一歩男の方に近づく。  それがこちらもまだ年若い少年だということが分かると、男はまた卑しい薄ら笑いを浮かべた。 「あ?あぁ、あのがきに誘われてな、ちょっと可愛がってやってたんだ」 「……金、払えよ……!」  子どもがげほげほと咳き込みながら苦しげに訴える様子を、少年はちらりと目の端で捉え、事情を悟ったように頷く。  そこからは、一瞬だった。  少年が、一足飛びで男に飛び掛かり、貧相な男の身体を引き倒し殴りつける様を、子どもは呆気に取られながら見ていた。  そして、伸びてしまった男の懐からよれた財布を引っ張り出すと、少年は子どもに手を差し伸べた。  その時、差し出されたその大きな掌。  後光のように橙色の光を背負い、気遣わしげな表情を浮かべて自分を助け起こしてくれた少年の、指の長い大きな手。  こんな自分に、手を差し伸べてくれる誰かがいる。それは、初めてのことだった。子どもはその手を見つめ、そして視線を上げて、その少年の精悍に整った顔を見上げた。 「大丈夫か?」 「う、うん……」 「けっ、しけた野郎だ、小銭しか持ってねぇぜ。お前もな、身体売るならもっと上手くやりな」 「……うるせぇな」  少年は明るい往来まで少年を引っ張り出すと、ぽんと財布を渡して笑った。  浅黒い肌に、奥二重のきりりとした目元をした少年だ。秋の夜だというのに藍染めの着物の袖を捲り、引き締まった二の腕を晒している。 「お前、名は?」  まっすぐな目に見据えられることがなんだか気恥ずかしく、子どもは敢えてつんとした顔をして目を逸らす。 「……菊春」 「菊春か、えらく色っぽい名前だな」 「うるせぇ。大きなお世話だ」  宗次郎と菊之丞は、こうして出逢った。   ✿ 「こんなとこであんな奴相手にしてるってことは、色々苦労してんだろ。歳はいくつだ」 「……十」 「親は?」 「……いない」 「今、何処に住んでる?」 「……寺」 「あぁ、あの孤児集めて面倒見てるってとこだな」 「……」 「何でこんなことしてる。あそこにいりゃ、飯は食えんだろ?」 「うるせぇな、どうでもいいだろ! そういうてめぇは何なんだよ!?」  もうあの場所にはいたくなかった菊春は、歩き始めた宗次郎について歩いていた。二人は急ぐでもない足取りで、さらさらと流れる川のほとりを進んだ。  日はとっぷりと暮れ、空には少しばかり欠けた月が浮かんでいる。  宗次郎がどこへ行くのかは分からなかったが、なんとなく、離れがたかったということもある。しかし、矢継ぎ早の質問攻めに堪りかねて声を高くすると、宗次郎は頭の後ろで両手を組み、はははと笑った。 「すまねぇな。俺、今日は祭りの手伝いで小銭を稼いでたんだ。普段は吉原の女楼で下働きしてる」 「……吉原」 「あぁ、男にとっちゃ夢の花街。女にゃ地獄さ」 「……」  菊春は咄嗟に思い付いた決意に急かされるように、その場にぴたりと立ち止まった。つられて、宗次郎も立ち止まる。 「俺も、連れてってくれねぇか」 「え? なんだお前、そこで身売りでもしようってのか?」 「……」  何も言わず俯き、険しい顔をしている菊春を見て、宗次郎は軽くため息をつく。 「何か事情がありそうだな。話してみろよ」 「別に、ただ金が欲しいだけだ」 「何でだよ。その金で何をしてぇんだ?」 「あんな所、もういたくねぇんだ。坊主どもの相手してたって、何の特にもなりゃしねぇ」 「ふぅん、なるほどね」 「あのままあそこで坊主になんかなりたくねぇ。金貯めて、行きたいとこへ行って、食いたいものを食うんだ」 「ふぅん、このご時世に、食いっぱぐれないだけましなんじゃねぇのか?」 「てめぇに何が分かる!」 と、菊春はいきりたって、横を歩く宗次郎の足をげしげしと蹴る。 「いってぇな! 足癖の悪い餓鬼め」 「けっ」  宗次郎は話を聞きながら、不機嫌な菊春の横顔をしげしげと観察する。  菊春の容姿は、確かに華がある。どれだけ薄汚れた身なりをしていても、漏れ出すような色香があった。  丈の短くなった垢じみた着物に、擦り切れそうな草履をつっかけただけの格好だが、裾から覗く白く艶やかな脚や、まさに白魚のような手指。少し茶色みのかかった髪の毛を結い上げ、そこから覗く華奢な細首……それらは宗次郎の目にも好ましく映った。  つんと尖った高い鼻と、ぽってりとした小振りの赤い唇、そして長い睫毛に縁取られた大きな目は、まるで造り込まれた人形のように整った造作をしている。  さぞかし別嬪な母親であったのだろうということが覗われるような、美しい顔だ。 「……きれいだもんな、お前。欲求不満の坊主がほっとくわけがねぇ」 「……」  宗次郎がさもありなんとばかりに頷きながらそう言うと、菊春は更に不機嫌そうに頬を膨らませた。 「そんなら、俺と来るか?」 「え?」  菊春が顔を上げて目を瞬く。その目は暗がりでも光を湛えるように、きらきらときらめいている。宗次郎は少し照れくさそうに頬を染め、月の光を照らす川面に視線を移した。 「俺が今面倒見てもらってる見世で、まだ人手を欲しがってたからさ」 「ほんとか?」 「あぁ、大丈夫さ」 「……そうか」  とだけ、菊春は応じた。そして、初めて表情を緩めて微笑する。 「……行く」 「そうか」  そうして、宗次郎はまた菊春に手を差し伸べた。  菊春はただただそれが嬉しくて、気を抜いたら零れそうになる笑みを噛み殺しつつ川面に目を落とし、宗次郎の手に触れる。  水の流れる音が、こんなにも心地よく聞こえたのは初めてだった。

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