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三 上客
菊之丞、十八の今。
その日の午後、まだ陽のある内に、笹田貴雪が藍間屋に品物を持ってやって来た。
たまたまいつもより早く着替えを終えて既に店に出ていた菊之丞は、風呂敷包みを丁寧に抱えて暖簾をくぐって入ってきた貴雪に、軽く手を挙げる。
「よう、若旦那」
「あぁ、菊之丞さん。こんにちは」
穏やかな笑みを浮かべ、貴雪は商人らしく丁寧にお辞儀をした。菊之丞の向かいに腰掛け、隣の席に風呂敷包みを置くと、茶をもってやって来た弟分にまで丁寧に礼を言う。
「清之介なら、まだ風呂入ってるんじゃねぇかな」
「あぁ、いいんですよ。今日はこれをお届けに参っただけですから。宗次郎さんはおいでで?」
「ちょうどいいところに。よく来たな、旦那」
と、奥から笑顔の宗次郎が姿を現す。
背丈はあるが、どちらかというと細長い背格好の貴雪と、全身を鍛えてがっしりとした宗次郎が並んで座ると、なんだか急に机が狭く感じられる。菊之丞はやや身を引いて、猪口に残っていた酒をちびりと飲みながら、話をしている二人を見比べた。
今しがたまで厨房の手伝いをしていたらしい宗次郎は袖をまくり、常に爽やかな笑みを浮かべて貴雪と金の話をしている。金の管理から飯の支度、そして弟分たちの世話、さらに女相手の身売り、宗次郎に抱かれたくてやって来る男客の相手……。何もかもをこなす宗次郎を存在は、ここ藍間屋には欠かせない。
ここの楼主たるなつ江が全幅の信頼をおいているのも、頷ける。
「今日はなつ江さんはいないのですか?」
と、貴雪。
「あぁ、好 い男と物見遊山だとさ」
「そうですか、素敵ですね」
「あんな五十がらみの親父の何処がいいのか分かんねぇけど、まぁ機嫌が良いなら俺たちも言うことはねぇよな」
と、宗次郎は菊之丞に笑みを向けながらそう言った。
「あぁ、そうだな。しかしまぁ、悪趣味なことだ」
「おめぇは人のこと言えねぇだろ。おやじにいたぶられるのが趣味のくせによ」
宗次郎が溜息混じりにそう言うと、菊之丞は軽く肩を揺すって笑う。
「はは、ちげぇねぇ。でも、前も言ったけどよ、品のいい男も大好物だぜ、旦那。俺ともいっぺんどうだい?」
「あ、いえ……大丈夫です、遠慮しておきます」
向かいに座る菊之丞に、顎を人差し指で思わせぶりに掬われて、貴雪は強張った笑みを浮かべつつ身を引く。宗次郎が楽しげに笑った。
「おいおい、旦那をいじめてやんなよ。清之介が怒る」
「そうだな。すまんすまん」
菊之丞は艶やかに笑い、白い指で猪口を持ち、酒を一口飲む。その動きは流石に優雅で、貴雪はその仕草を感心したように見ている。
「さて、俺はもうちょい支度があるから、菊、あとは頼んだぞ」
そう言って宗次郎は席を外し、菊之丞と貴雪は二人になった。菊之丞はもうひとつ猪口を取ってくると、貴雪に酒を薦めた。
「あ、どうも」
「珍しい、断らねぇな。清之助を待つ気になったのかい?」
「あ、いえ……今日はもう、ここで仕事終わりなので、たまには菊之丞さんとお話をしてみたくて」
「そうか」
二人は軽く世間話をしながら、酒を酌み交わした。西日が格子戸から忍び込み、床に長い影を作り出す。
「菊之丞さんは、ここは長いんですか?」
「あぁ、この見世立ち上げたときからのな。もう七、八年てとこか?」
「へぇ……」
年齢でも逆算しているのか、貴雪が少し気まずそうな顔をする。そういう正直な反応は嫌いではない菊之丞は、くくっと喉を鳴らして笑った。
「そうだよ、十になった頃から俺はもう陰間だった」
「……なるほど」
衆道において、齢十一より十四までは「蕾める花」、齢十五から十八までは「盛りの花」、齢十九から二十二までは「散る花」とされている。
通常、陰間は齢十三、四から客を取り始め、齢二十前後には男客を取らなくなる。齢二十過ぎの陰間は、もっぱら女性客を相手にするようになるのだ。
しかし菊之丞は、幼い頃に引き取られた寺の坊主たちによって、早いうちから身体を躾けられていたため、異例の速さで客を取るようになっていたのだ。
幼く美しい菊之丞はすぐに藍間屋の看板となり、なつ江の認めるよほどの上客でなければ、菊之丞を抱くことは出来なかったのである。
「いいよ、そんな気まずい顔しなくても。寺にいたまま、なんの金にもなりゃしねぇ坊主ども相手になってるよりはずっと良かったし」
「坊主、ですか?」
「あぁ、孤児だったからな」
「あなたも……」
「あぁ。この世界じゃ珍しくもねぇだろ。宗次郎だって、そこにいる弟たちだってそうさ。清之助は親に売られちまったわけだから、少し事情は違うけどよ」
「そうですね。では、宗次郎さんとはずっと?」
話題を変えるように、貴雪はそう訊ねてくる。菊之丞は頷いて、酒を飲んだ。
「あぁ、ずっと……一緒だ」
「そうなんですか。通りで」
「なにが?」
「言葉はなくとも、どこか通じ合っているような雰囲気があるような気がいたしましたので」
「……」
貴雪のそんな台詞に、菊之丞は手にしていた徳利を思わず取り落としそうになった。貴雪を見ると、ただ穏やかに微笑んでいるだけで、冗談やお世辞を言っているわけではなさそうだ。
「……どうだかな」
つい、返事が素っ気なくなる。加えて何か言いかけた貴雪のもとに、軽い足音と共に清之助が駆け寄ってきたため、その続きは聞けなかった。
「旦那! 来てくれたのかい?」
「あぁ、お届け物だよ」
「ふぅん。菊兄と飲んでんだ、珍しいね」
こざっぱりとした淡黄 色の着物を着込んだ清之助は、明るい色の衣のせいか、それとも貴雪に会えてよほど嬉しいのか、いつもよりずっと顔色が良く見える。ついこちらまで微笑んでしまうほど、清之助は楽しそうに笑っている。
「さぁてと、邪魔者は去るかな」
と、おどけた口調でそんなことを言いながら菊之丞が立ち上がると、二人は揃って顔を上げた。
「あ、いいのに、まだ飲むだろ?」
と、清之助。
「いや、そろそろ行かねぇと。今日は尾形様のところへ出張 る日だから」
「え? 尾形様というと、あの歌舞伎役者の?」
と、貴雪が目を丸くする。
尾形龍五郎という、今をときめく歌舞伎座の花形役者が、菊之丞の大得意なのだ。
齢三十過ぎ、芸事も色事ものりにのっている役者で、この江戸で彼の名を知らぬ者はいない程の人気者である。
「そうさ。あの人とも長い」
「すごいですね」
と、純粋に驚き感心している貴雪の素直なところは、菊之丞から見ても好ましい。
「そうだろ。じゃあな、旦那」
ひらりと手を振り、菊之丞は裏口から見世を出ようと厨房の脇を通り過ぎようとした。そこで、宗次郎に呼び止められる。
「菊」
「ん?」
「尾形様に言っとけ、あんまり商売道具に手荒な真似すんなってよ。顔に怪我されたんじゃ、仕事に響くからよ」
「あんな金払いの良い客に、んなこと言えるかよ」
「でも、この間の傷なんか……」
「いいんだよ。俺はそうでもしなきゃ感じねぇ。俺がそうやってくれって頼んでんだ」
「お前なぁ……」
「そろそろ行かねぇと。あと、帰るまで起きて待ってなくていいからな」
「……へいへい」
宗次郎は複雑な表情を浮かべ、諦めたよう口を噤む。いつもの鷹揚とした雰囲気は影をひそめ、眉を寄せた不機嫌そうな顔で菊之丞を見送る。
「……そんな顔すんじゃねぇ」
茜色に金糸の入った艶やかな襟巻を巻きつけ、菊之丞は振り返らずそう言った。見なくても、宗次郎がどんな顔をしているのかは分かる。
「俺の勝手さ」
静かな声色で、宗次郎はそう応えた。
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