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終 添い

 結局、宗次郎の働きのおかげか、清之助の一件はすんなりと方がついた。  なんだかんだ冷たいことも言ったが、清之助をきちんと送り出すことができて、宗次郎も菊之丞も一安心していた。あとは清之助が自分の力で努力して、新たな人生をまっすぐ歩いて行って欲しいと願うばかりだ。  気付けば年の瀬となり、すっかり町中が冬支度を整えていた。新たな年を迎える準備に忙しい人々から忘れ去られるように、藍間屋はひとときの静寂を得ることとなる。  藍間屋にいる子どもたちは行く宛もないため、皆がここで年を超す。なつ江は例によって男のところへ行き、見世はのんびりとした雰囲気であった。  見世の一階では、弟たちがめいめい夕飯をのんびり食べて寛いでいる。今夜は見世を休みにして客を取ることもなく、静かに年を越すのである。  そんな中、菊之丞と宗次郎は二人で酒を酌み交わしていた。二階の一番広い座敷で火鉢を傍らに置き、行灯の光でのんびりと酒を飲む。  菊之丞は窓を背に脚を投げ出して、ゆったりと煙管をくゆらせる。細く開いた灯り障子の隙間からは、星のない真っ黒な夜空が、のっぺりと幕を張っていた。  宗次郎も菊之丞と横並びで腰を下ろし、火鉢を見つめている。  二人の間には、酒と肴の乗った漆塗の盆が置かれている。菊之丞はそこに置いてある宗次郎の猪口に酒を注ぎ、にやりと笑った。 「この俺に酌をしてもらえるなんざ、今日ぐらいだぜ。感謝しな」 「へいへい」  実際、菊之丞に相手をしてもらおうとなると、かなりの額が必要だ。  歌舞伎役者の尾形や、高名な学者などを客にしているということで箔が付き、菊之丞は吉原の太夫と同格の値がつくようになっていた。なつ江はそんな菊之丞を出し惜しみし、値を釣り上げ、菊之丞は男ながらに高嶺の花と呼ばわれる程の人気者となっていた。  陰間としての真っ盛りである菊之丞も、あと数年もすれば男客を取ることを控えるようになるため、今の内に荒稼ぎしてやろうというなつ江の魂胆であった。  江戸の人間たちは皆好奇心旺盛で流行りものを好む。噂が噂を呼び、菊之丞見たさに見世へ来る男客も増え、藍間屋は今年かなりの稼ぎを上げたのであった。 「清之助がいなくなると、静かなもんだな」 と、菊之丞は呟く。宗次郎は頷き、「ちげぇねぇ」と応えた。 「年明けから優太郎の躾を始めねぇとな」 「あぁ、俺がやるよ」 と、菊之丞はちびりと酒を舐める。 「優にはいつも傷の手当してもらってたからよ、俺が相手になった方がいいだろ」 「傷か。……あれ以来、本当にお前には触らなくなったな」 「……あぁ、あん時ね」  二人が思い出すのは、初めて尾形のもとへ行ったあの夜のこと。  あの日自分に触れた宗次郎の体温と、その後に訪れた奈落のような失望は、今でもはっきり思い出せる。  あれ以来、宗次郎は菊之丞に指一本触れることはしていない。 「菊。……お前、俺のことが好きなのか?」  もののずばりとした問いかけに、菊之丞は思わず酒を吹き出していた。  噎せながら宗次郎を見遣ると、宗次郎がやけに神妙な顔をしているのが可笑しく、なんだか笑えてしまった。 「あっはははは! お前、何だよ。藪から棒に!」 「お前、この間俺に言ったろ。俺の側が自分の居場所だってよ。俺……あんまり人の気持ちとか、分からねえから」 「……そうみてぇだな。てめぇが得意なのは金勘定とお愛想と、下の穴に突っ込むことぐらいだもんな」 「うるせぇな。否定はできねぇけど」 と、宗次郎はへそを曲げたのか、そっぽを向いて酒を飲み干した。  そんな気の抜けた横顔を見ていると、なんだかもう、色んなことがどうでも良くなってきた。  菊之丞はふっと笑って、力が抜けたように息を吐く。 「……お前といたいよ。ずっと」 「……え」 「分かりやすく言ってやる。好きだよ。お前のこと、ずっとずっと、昔から」 「……そう、なのか」 「でも、だからどうこうしたいっていうわけじゃねぇ。ただ、お前のそばに居たいだけだ」 「……」 「馬鹿野郎、そんな顔すんなって気持ち悪い。今更お前に抱いてくれとか言うつもりもねぇよ」 「言わねぇのか?」 「なに残念そうな顔してんだよ。今更できねぇよ、お前とは」 「何でだ」 「……何だお前、俺とやりたいのかい?」 「そういうわけじゃねぇけど。……確かにまぁ、そういう雰囲気じゃねぇか。お前とは一緒にいる時間が長すぎる」 「そうだろ? ……それにあの時、お前にあのまま抱かれてたら、多分俺はもうここで働けなかった。ってことは、お前のそばにもいられなかったってことだ。……だから、あれでよかったのさ」 「あの時、か」 「お前はどういうつもりだったんだ? ずっと不思議だったんだ」 「……そうだな。初めは慰めてやるかくらいのつもりだったんだけどな。思ったい以上におめぇが色っぽい声出すし、身体も、思ってた以上にきれいだったから……余計に尾形様が憎らしくなってな」 「ふうん」 「やりたかったな、あん時は。でもそうなったら、多分俺もお前にこんな仕事させたくねぇって思うようになってたと思う。……だから、良かったんだ。あの時踏みとどまっておいて」 「そういうことさ」  二人はなんとなく顔を見あわせ、微笑み合った。  菊之丞は宗次郎に酌をしてやり、宗次郎はそれを美味そうに飲む。 「……接吻くらいしておくか」 と、宗次郎が横顔に優しい笑みを浮かべる。 「馬鹿野郎、金払え」 「いいよ、いくらでも払う」 「……」 「お前に触れたいんだ。菊」 「え?」 「お前は俺の、大事な大事な、宝物みたいなもんだから。俺みてぇに、男でも女でも金貰ってほいほいと抱いちまうようなこの手で、触っちゃいけねぇと思ってた」 「……」  宗次郎は二人の間を隔てていた盆を滑らせて、菊之丞に身を寄せる。 「お前が、俺を好きだと言ってくれるなら。俺は菊を抱きしめたい。ただ、大切にしたいって……思う」  宗次郎の暖かな唇が、そっと菊之丞のそれに触れる。  触れるだけの、やさしい口づけ。  体温を伝え合い、互いをいたわり合うような、やさしい口づけだった。 「……やっぱり、そんな気分にゃならねぇな。お前はもう、近すぎる。それに、大切すぎる」  顔を離して、宗次郎はそう言って笑う。  菊之丞もつられて笑い、そっと頬を撫でる宗次郎の手に自らの手を重ねた。 「……俺もだ」 「菊春」 「……その名前で呼ぶな」 「いいだろ、二人の時は」 「まぁ、いいか……」  宗次郎は菊之丞を抱き寄せてその頭を肩に凭れさせると、そっと艶やかな髪を撫でた。      幸せだと、思った。  暖かな宗次郎の手があまりに心地よく、菊之丞はうっとりと目を閉じて、着物越しに伝わってくる宗次郎の体温を愛おしく感じていた。 「……宗次郎の手が好きだ。初めて会った時から」 「初めて? ……ああ、祭りの夜か」 「うん。……助けてくれてありがとうな、あん時」 「ようやく礼を言う気になったのか」 「うん」 「……そうか」  外では、音もなく雪が降り始めていた。しんしん、しんしんと、華やかな色街を白一色に染めていく。  目を閉じると、一筋の涙が頬を伝う。菊之丞は涙を流しながら、自分を離そうとしない宗次郎のやさしい手の温もりに、心から幸せを噛みしめた。 「……冷てぇ指だ」 と、宗次郎が呟く。 「お前があっためりゃ済む話だ」 と、菊之丞は応える。 「それもそうだな」 と、宗次郎は静かに笑った。 終

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