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八 居場所
再び、菊之丞十八の今。
霜月も終わりに近づき、町の紅葉も盛りを過ぎた頃、珍しく宗次郎が険しい顔で煙管を吹かしているところに出くわした。
まだ昼過ぎの明るい時間で、ぼんやりと曇った空は明るい乳白色をしている。
まだ多少寝ぼけ眼の菊之丞は、そんな空と同じように薄曇りな意識を覚ますべく、井戸水を汲み上げて顔を洗う。突き刺すように冷たくなった水が、霞をさっぱりと流し去っていく。
「どうしたんだよ、浮かない顔だな」
と、菊之丞の存在に気づいていないかのような宗次郎に声をかけると、ぴくと指を揺らして宗次郎がこちらを向いた。いつものように桶に腰掛け、煙管を噛んでいる。
「おめぇ、いたのか」
「いたよ、さっきから。何ぼうっとしてやがる」
「……清之介がな」
「ん」
「胡屋の旦那に身請けしたいと言われたそうだ」
「ふうん。……えええ!!?」
「でっけぇ声出すな、うるせぇな」
「身請けだと!?」
「だからそう言ってんだろ」
「……なんとまぁ」
あの二人が一緒にいる時は確かにいい雰囲気だが、まさか貴雪がそこまで清之介に入れ込んでいるとは意外で、菊之丞は素直に驚いていた。
「旦那が清之介の身体を気に入ったってことかい?」
「いや、あいつらまだ最後までは致してねぇぜ」
「え、ほんとかよ!? じゃあ何でだよ!?」
「だからいちいちうるせぇな、お前」
と、宗次郎は耳の穴に小指を突っ込み、迷惑そうに菊之丞を見上げた。
「奇特な奴がいたもんだなぁ。まぁでも、いい話じゃねぇか。俺は応援するぜ」
菊之丞は宗次郎の煙管を取り上げて、すっと自分の口へ持って行く。そして渋い顔をした。
「何だこれ、空じゃねぇか」
「え? ああ、忘れてた」
「何をそんなに考えこんでんだ? おっかさんのことか?」
「そうさ。俺だって旦那になら安心して清之介をやれる。でも、母さんは何て言うかな」
「……そうさな。まぁ……多分、嫉妬するね」
「はぁ? どいつにだ?」
「清之介さ。おっかさんだって遊女だったんだろ? でも身請けされるような話もなく、今もここで商売しているわけだろ」
「ああ」
「それがさ、自分が連れてきた子どもが、あんな条件の良い男に身請けされようっていうんだろ? 面白くねぇんじゃねぇのか?」
「……そんなもんかな」
「そうさ。だって実際俺だって……」
はたと菊之丞は言葉を切った。宗次郎が、怪訝な表情で菊之丞を見上げる。
「あ、いや……。そのさ。男のくせに、いやらしいね。あんな有名人をたらし込むなんて……って言われたことあるんだ」
「有名人? 尾形様のことか?」
「うん」
「なるほどな」
それだけではなかった。尾形のもとに通うようになってから一年ほど経った頃、尾形から正式に菊之丞を貰い受けたいという話が持ち上がっていたのだ。
しかしその話は、当時男にふられたばかりで荒れていたなつ江によって、あっさりと反故 にされたのであった。
菊之丞に負けたとでも感じたのか、なつ江はしばらく菊之丞に辛く当たり、この話は二人だけの胸に納めておくようにと命じられた。
性別が異なろうが、なつ江にとっては、雇い入れている陰間でさえも嫉妬の対象なのだろう。
「じゃあ、うまく話ししといてやらねぇとな」
と、宗次郎は腰を上げながらそう言う。
「お前が渡りをつけるのか」
「可愛い弟のためだ」
「それもそうだな……」
「なんだ? 菊は旦那のことが気に食わねぇんじゃなかったのかぃ?」
「まぁ、最初はね。でも……あの人はほんとに優しい、良い男だ。俺らのこと、ちゃんと人間扱いしてくれる」
「そうだな。……なぁ、菊。お前も、もっと早くにああいう人と繋がっておきたかったか? 尾形様みてぇな乱暴ものじゃなく」
「え?」
珍しく、宗次郎に真面目な口調でそんなことを問われ、菊之丞はやや狼狽える。
「どういう意味だよ」
「知ってんだぜ。尾形様がお前を身請けしたいって言ってたこと」
「あ……」
宗次郎は少し俯き、壁に凭れて続ける。
「母さんの悋気 がなきゃ、お前は尾形様んとこに行ってただろ? あの人のことは、お前も気に入ってるわけだしよ」
「そんな昔の話……」
「菊も、清之助みたいに外に出たいと思わなかったのか? そん時言ってくれりゃ、俺から母さんに頼んだのによ」
「別に……俺はこの仕事嫌いじゃねぇから、いいんだ。清之助みたいに頭もよくねぇしさ。それに、その話受けたくなかったからな。母さんが断ってくれて助かったぜ」
「そうなのか?」
菊之丞は、どこか物憂げな宗次郎の横顔を見つめる。溜息をつくと、懐手をして宗次郎と並んで壁に凭れる。
「そんな顔すんな。何なんだてめぇはいっつもいっつも。俺の事となると神経質になりやがる」
「んなことねぇよ」
「俺はここにいたいんだ。お前のいる場所に」
「……え?」
「宗のいるところが、俺の居場所だ。これからもずっと」
「菊……? それ、どういう意味だよ」
戸惑った宗次郎の声に、菊之丞は可笑しげに笑う。
「ははっ、くそ鈍いやつだ。まぁ今は、清のために頑張ってやんな」
「おい、菊……」
宗次郎がこういうことには、とことん愚鈍であることは分かっている。
しかし今は、伝えておきたかった。伝わりきらなくてもいい、ただ、知っておいて欲しい。
結局変わらない、この気持ちを。
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