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七 隠し

 藍間屋に戻り、風呂の支度を手際よく済ませた宗次郎が戻るまで、菊之丞は裏の井戸端で呆けていた。  身体中が痛く、重く、自分で動かせる気がしなかった。 「菊、風呂へ行け。身体を冷すと病になるぞ」 「……うん」 「ん? お前……、これ」  勝手口の足元に置かれた行灯の火に、菊之丞の手首の傷が赤く照らされるのを見て、宗次郎は声を上げた。  慌てて袖で隠しても遅く、宗次郎は菊之丞の腕を強引に掴んで引き寄せると、顔を寄せて擦り剥けた手首の傷を凝視し、怒りにも見える表情を浮かべた。 「あの野郎……!」 「痛い、離せよ」 「ちょっと待て、他にもあるんじゃねぇのか? 見せてみろ!」 「やめろって……!」  腕っ節の強い宗次郎には敵わず、その場で着物の片袖を抜かれた。噛み付かれた痕や強く引っ叩かれた痕が赤紫に染まっているのを見て、宗次郎の顔色がすうっと冷えていく。 「……ひでぇ」 「いいんだよ! 別に……」 「よくねぇだろ! こんな……! なんで俺を呼ばなかった!?」  物凄い剣幕で怒鳴られ、今まで抱えていた悲しみが、火山の爆発のように怒りへと転じた。  菊之丞は力任せに宗次郎の手を振り解き、思いきり睨みつける。 「おめぇには関係ねぇだろ!! 俺に触るんじゃねぇ!!」  宗次郎のきりりとした目が、苦しげに細まる。 「嫌じゃなかったからだよ! ああやって乱暴にされるの、すげぇ()かった。初めて客とやってて気持ちいいって思ったんだ!」  ――お前にあんな姿を見られたくなかったからに決まってんだろうが!  ……内心では、声が枯れるほどにそう叫んでいた。 「痛い方が感じるみたいなんだよな、俺。乱暴に犯されるの、すげぇ興奮したんだ。客より先にいっちまうくらいにな。……だから、お前の出る幕じゃねぇだろ」  菊之丞は敢えて軽い口調でそう言って、無理矢理に笑みを浮かべる。 「……やめてくださいって、言ってたじゃねぇか。聞こえてたんだぞ」 「あれも愉しむための演技だ。真に迫ってたろ?」  宗次郎は舌打ちをして、むんずと菊之丞の腕を掴み、風呂場へと引き摺っていく。離せ離せと暴れても、その手は緩むことがない。  ざばりと湯をぶっかけられ、恨めしげに宗次郎を睨むが、宗次郎は不機嫌な顔のまま着物の裾をまくって手桶に手拭いを浸し始めた。 「何やってんだ」 「手当てに決まってんだろ。その前に身体洗え」 「いいよ手当なんか。湯は浴びるから出て行けよ」 「その傷放っとくと、明日になったらもっとつらいぞ」 「……」  渋々一人で背中を流してさっぱりした後、風呂場から出ると、待ち構えていた宗次郎に自室へと引っ張って行かれた。  冷えた手拭いで傷を撫でられると、沁みる痛みに顔をしかめてしまう。しかし熱を持って腫れ上がった傷に、冷たい感触はとても心地が良い。 「ひでぇな……こんなにされるのがいいってのかよ」 「そうだよ」  ――お前に同じ事をされる空想をしてたからな……と、内心付け加える。  そんなことを考えてしまう自分を、なんといやらしい奴なのかと嫌悪しながら。 「……つ!」 「ほらみろ、痛ぇんだろ。痩せ我慢しやがる」 「うるせぇ」  新しい浴衣を羽織ってひと心地つくと、今夜の事が全て夢だったような気分になった。  激しい落胆も、何もかも。 「菊」 「ん?」 「こっち向け」  黙って背中の擦り傷に軟膏を塗りつけてくれていた宗次郎の手が肩にかかり、菊之丞は素直に正面を向いた。  手を取られ、手首の傷にも丁寧に軟膏を塗られている間、そっと宗次郎の顔を盗み見る。  きりりとしたこの強い目が、好きだ。  よく笑う大きな口も、小さなことには拘らない泰然とした性格も。  はじめはそんなつもりはなかった。手を差し伸べてくれたのは嬉しかったし、良い奴だなと思う程度だったのに。  でもいつからか、ずっとこいつのそばにいられたら、どんなに楽しいだろうと考えるようになっていた。  何気ない日々のやりとりが少しずつ降り積もり、宗次郎の笑顔を見ると嬉しくて、仕事でどんなことがあっても正気を保っていられた。   でも、宗次郎の心はいつまでたっても見えないままだ。  爽やかで逞しい青年に成長した宗次郎は、なつ江の指示で女専門の陰間になった。今では押しも押されぬ人気者ながら、見世のことも切り盛りする遣り手になった。  愛想も外面も良い宗次郎は、誰にでも、いつでも笑顔でいる。  そんなこいつの特別になりたいと、思い始めたのはいつからだろう。 「……俺の顔に、なんか付いてんのか」 「あっ、いや……」  ばれていたらしい。宗次郎は微笑して、菊之丞を真っ直ぐに見つめてくる。  頬が熱くなるのが恥ずかしく、菊之丞はさっと目を逸らした。 「何でもねぇ……」  不意に、これから軟膏を塗られるはずの左手に、暖かく湿った感触が触れる。菊之丞は顔を上げて、同時に目を瞬いた。  宗次郎の唇が、手首の傷に触れているのだ。目を閉じ、慈しむような優しい仕草で、その傷を癒やすかのような口付けをしている。 「そ……」  熱くて、乾いた唇だった。  宗次郎は意外と睫毛が長いんだなぁと、こんな時なのにふとそんなことを思う。   薄く開いた唇から赤く湿り気のある舌が覗き、ちろりと傷の上を舐められて、菊之丞ははっとした。 「宗……何やってんだ」 「やっぱり、止めに入れば良かったんだ」 「え……?」 「お前にこんな傷……付けさせたくなかった」 「は……」  目を上げた宗次郎の表情に、ぞくりと身体中が騒ぐ。ついさっき尾形の所で垣間見せた、悔しげで、悲しげな表情だ。  何も言えず、されるがままになっていると、両腕が伸びてきて宗次郎に抱きすくめられた。ずっと焦がれていたその大きな身体に包み込まれ、息ができなくなるほどに菊之丞は驚いていた。 「は……んっ!」  耳朶を淡く噛まれ、菊之丞は堪らず声を漏らす。宗次郎の右手が、着物を落としたままの背中を撫で、腰に回る。 「宗次郎、なに……やって」 「こんな痣、つけやがって」  尾形に噛み付かれた痕の刻まれた肩口に、宗次郎はまた淡く口づけをする。左手は菊之丞の右手をしっかりと握りしめ、ただならぬ想いを流し込まれているように感じられた。 「宗次郎、まっ……待てよ……」 「菊、ちょっと黙れ」 「あ……!」  肩口から肩先へ唇が滑り、そのあまりの心地よさに身体が震えた。無意識に腕が持ち上がり、宗次郎の背にすがりつく。  そのまま畳の上に押し倒され、首筋から鎖骨、そして胸の突起を舌で転がされ、菊之丞はぴくんと身体を跳ねた。浴衣の裾から宗次郎の熱くて大きな手が滑り込み、太腿をゆっくりと撫でられる。 「あ……はぁっ……!」 「……こんなとこにも」  右脚を持ち上げられ、内腿に付けられた痣を見つけられる。宗次郎はその脚を肩に載せ、菊之丞の帯を解いた。 「……許せねぇ、お前の身体をこんなにしやがって」  宗次郎は菊之丞の顔の横に両手をつき、じっと朱に染ったその顔を見下ろした。目を潤ませ、浅い呼吸を繰り返していた菊之丞は、恥じらうように目を伏せる。 「な、なんで……お前がそんな顔して怒るんだよ」 「なんでかな、俺にもよく分からねぇよ」 「それに、なんでこんなふうに俺に触るんだ」 「……分かんねぇ。ただ、どうしても許せねぇんだ」 「んっ……」  そのまま、二人の唇が重なり合う。  互いの弾力を確かめ合うかのような、軽く押し付け合う接吻を繰り返しながらも、宗次郎の手が脇腹から腰へと降りていく。 「ふ……う。んっ……!」  宗次郎の舌が、ゆっくりと菊之丞の唇を舐め、隙間を通すように舌が忍び込んで来る。  ぬるりとした熱い感触に、菊之丞の理性は飛んでしまいそうだった。ゆっくり、ゆっくりと宗次郎の舌が口内を撫でる。  嬉しくて嬉しくて。  幸せで幸せでならなかった。  このまま、宗次郎に抱かれてしまいたかった。 「あっ……んっ。そう、じろ……ぅ。はぁ……っ」 「綺麗な、身体なのに、こんなこと……させたくなかったのに」 「うっ、んんっ……! あ……!」  ゆっくり、柔らかな手つきで股の間を撫でられてしまえば、一瞬で蕩けてしまいそうな心地がした。加えて耳元で名を囁かれ、その甘く低い声に、身体中が痺れてしまいそうになる。 「菊……」 「あっ……! はぁっ……」  内腿に感じる、宗次郎の熱く尖ったもの硬さに、身体の奥底から熱いものが滾りだす。    欲しい。挿れて欲しい。  このまま激しく、抱かれたい。  こいつのものになりたい。宗次郎に、愛されたい。 「そうじろ……っ! ぅ、んっ……っ!」 「お前のきれいな身体……こんなことさせたくなかったのに……」 「んぁ、っ……あ!」  でも、その後は?  こんな想いを知って、こんな蕩けそうな心地を知って、今ここで思いを遂げてしまったら、自分は今後、身を売れるのか? 金を稼げるのか?  ――……俺は、何のためにここへ来た……。 「……や、やめろよ!! 離せ!!」 「!」  菊之丞は思い切り宗次郎の胸を押し返した。不意をつかれた宗次郎は、あっさり突き飛ばされて尻餅をついている。 「おめぇは……男には興味ねぇって言ってただろ! これ以上やんなら……金払え馬鹿野郎!」 「……菊」 「遊びも大概にしやがれってんだ! 俺は……金稼ぎにここへ来たんだぞ! 何我が物顔で俺に手ぇ出してやがんだ、ふざけんな!!」  菊之丞は、起き上がりかけた宗次郎を睨みつけながら、さっと乱れた着物を身に纏う。  宗次郎は呆然として、自分の掌を見下ろしていた。 「冗談がすぎるぜ。本気で怒るぞ」  冗談ではない、お前が好きだからこんなことをしたのだと、言って欲しい。  そして強引にでも、そのまま続きをして欲しい。  ――お前に抱かれたい。お前のことを、好きだと言いたい。  腹の中で、本音の菊之丞が叫ぶ。しかし、期待した答えは、宗次郎からは聞こえてこなかった。 「……悪かった」 「……」 「ついな、大事な弟に怪我させられて、腹が立っちまったっていうか……。変だよな、こんなことするなんてどうかしてる」  頭を掻きながら、宗次郎はぎこちない笑みを見せた。そんな顔を、今は一番見たくなかった。 「……馬鹿野郎……!」 「すまねぇ」 「……お前なんか、大っ嫌いだ!! もう二度と俺に触るんじゃねぇ!!」  怒鳴りながら、涙が出た。  格好悪い、情けない。女みたいに逆上して、一人の男に拘るなんて。    そんな自分が、大っ嫌いだ……!  宗次郎から逃げて、菊之丞はばたばたと二階へ駆け登った。  客はもう全員はけていて、座敷はどこもしんとしている。手近な部屋へ引きこもり、襖をぴったり閉めてその場に座り込む。 「……っぐ。うっ……ううっ……」  嗚咽が止まらない。涙も、止まらない。  宗次郎に触れられた場所が、未だにじんじんと甘く痺れているような気がするのが、なお辛い。 「……くそ、ばかやろう……!」  それは自分に向けた悪態だ。情けなくて子どもじみてて、悲しくて。  もうこのまま、朝が来なければいいのにと、菊之丞は思った。

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