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六 萎れる心

   菊之丞、十三の昔。  芝居見物客で賑わう猿若町から、人の気配が鎮まり始めた夜半過ぎ、菊之丞と宗次郎は連れ立って歩いていた。通り左側手前から中村座・市村座・河原崎座が立ち並び、仕事でもなければ、活気のある呼び込みの太鼓の音や賑やかしい声に心も弾もうというものであるが、今はとてもそんな気分には程遠い。  先を行く宗次郎の広い背中を見つめていると、これから見知らぬ男の腕に抱かれねばならぬという事実がえらく心に重く、菊之丞の表情を曇らせる。  宗次郎と芝居見物にでも来れたら、楽しいかもしれねぇな……なんていう柄にもない事を思いついてしまったからであろうか、男の相手など慣れたことのはずなのに、既に藍間屋へ帰りたくなるほど、足が重たかった。  それぞれの芝居小屋の木戸口の上には櫓が上っている。その一つ、"河原崎座"と太い墨字で屋号の書かれた建物の下に立つ。  宗次郎が裏口から、所望された陰間のおとないを知らせている間、菊之丞は羽織の襟をぎゅっと握り締めて、俯いていた。  これまた見目美しい、役者見習らしき若い男が案内に出てきて、二人を奥まった稽古場へと連れてゆく。人気のはけた歌舞伎座はしんとして、暗い。冷たい木の床を滑るように歩く見習の後を進みながら、菊之丞は萎れかけた心を何とか立て直そうと、口を引き結んだ。 「龍五郎様、お客様がお見えでございます」  低くもなく高くもない滑らかな声で、見習の男は襖を開く。奥に設えられた舞台の前にどっかりと座した一人の男が、手にしていた盃を傾けながら、顔を上げる。  河原崎座の花形役者、尾形龍五郎である。菊之丞でさえその存在を知るような、江戸の町の人気者が、にっと凄みのある笑みを浮かべて、菊之丞を手招きした。  「さぁ、入んな。あんまし時間がねぇんだ。とっとと始めようぜ」  ✿  一目で尾形が自分を気に入ったことはすぐに分かった。挨拶が済むか済まないかのうちに、菊之丞は尾形に唇を塞がれていたからだ。  まだ背後にいる宗次郎に見せつけるかのように、尾形は激しく濃厚な口づけを菊之丞に与えた。 「……!」  後ろで宗次郎が息を呑むのが分かった時、感じたのは興奮だった。  見られたくないと願っていたはずなのに、いざそんな場面に直面してみると、宗次郎の目の前で淫らなことをされるということが、ひどく甘美なことに思えたのだ。  尾形の舌を受け入れ、尻を揉まれながら、菊之丞は宗次郎の気配に集中し、彼が奥歯を噛み締める音に耳をそばだてた。 「こんな別嬪(べっぴん)な餓鬼が来るとはね、驚いたぜ」 と、尾形は唇の片端を吊り上げて笑った。そして菊之丞を抱き寄せながら宗次郎を見遣り、勝ち誇ったような声色で言う。 「よぉ、男前の用心棒。おめぇは参加しねぇのかい?」 「……外でお待ちしていますので」 と、硬い声で宗次郎は答える。そんな宗次郎の顔を、見たくて見たくて仕方が無かったが、振り返って本当に見てしまうことも怖かった。 「外は冷えるぜ。ここにいりゃあいいじゃねぇか」 「いえ……俺は」 「いいよなぁ、菊之丞よ」  尾形に馴れ馴れしく肩を抱かれ、無理矢理に宗次郎の方へ身体ごと向けられた。  いつもの明朗快活な宗次郎の表情は、どこにもなかった。  怒りなのか嫉妬なのか、不甲斐なさなのか……宗次郎は唇を強く噛み締め、何かを堪え必死に無表情を作っているように見えた。  そんな宗次郎のぎらりとした目に見つめられ 、心臓が跳ねる。 「いいよな?」 「……はい」  重ねて尾形に確認され、菊之丞はこくりと小さく頷く。宗次郎は唾を飲み、何も言わずに背を向けて廊下へ進み出ると、その場に座して頭を下げた。 「廊下(ここ)におります。ごゆるりと」  すっ、と襖が閉まる。しかし、宗次郎の気配は消えない。  尾形はくくっと面白がるように喉の奥で笑い、菊之丞を抱き寄せて耳に唇を寄せた。 「あいつ、お前に惚れてんじゃねぇのか?」 「……え」 「見たろ、あの顔」  そうだったらいいのに、と心のどこかでずっと願っていたことだった。  しかしまさかこんな状況でそんなことを言われようとは……菊之丞は複雑な気持ちのまま、曖昧に頷く。 「……はぁ」 「でもな、今夜のお前は俺のもんだ。高い金払ってやるんだからよ、精一杯尽くしてもらうぜ」 「……もちろんでございます」 「いい子だ」  ぞっとするような鋭い目で射竦められ、気づけば菊之丞はへたり込んでいた。  そこからは、息をする隙も与えぬほどの、乱暴な愛撫であった。  髪を掴まれ無理矢理に尾形のものを咥えさせられ、喉の奥まで何度も突かれた。あまりに苦しく、涙を流しながらその行為に耐えた後は、胸倉を掴まれて頬を張られ、倒れ込んだところで腹の上に跨がられる。  繻子の帯で手首を一纏めに縛られると、毟り取られるように着物が剥がれ、身体中を舐め回されるのだった。  そんなことをしている最中の尾形の顔は、理性の欠片も消え失せたような心底愉しげな笑顔だ。菊之丞は初めて、客相手に恐怖を覚えた。 「待って……! まだ……!」 「慣れてんだろ、もういいじゃねぇか、まどろっこしいのは嫌いなんだよ……!」 「俺、自分でやりますから……!」 「大丈夫だって、すぐに良くしてやるからよ」  後ろを解す間もなく、尾形は腹に付くほど勃ち上がったものを菊之丞にあてがう。先に二度口で出したにもかかわらず、尾形のそれは恐怖を煽るほどに大きく、硬さを持っていた。 「まって!! おねがいです……!」 「もういい、だまりやがれ!」 「あっ!! あぅっ……!」  尾形は菊之丞の膝を掴み大きく脚を開かせると、そのまま中へねじ込んで来た。なかなかそれを受け入れようとしない菊之丞の頬を、焦れたように強かに張る。  冷えた稽古場に、破裂音と悲鳴が響いた。 「あ! い……や! ぃやだよ……!」 「黙れ!」 「あぅっ……! やめ……! いたい……よぅ……!!」  引き裂かれるような痛みが更なる恐怖を呼び、菊之丞は顔を背けて堅く目をつむった。しかし、尾形に頬を掴まれ上を向かされ、無理矢理に舌を捩じ込まれる。 「はっ……は……ん!っん……!」 「きついな……たまんねぇ」 「あんっ……! ふ、ん……っ!」 「もっと鳴けよ、外の用心棒にも聞かせてやれ」 「あ……!」  ――宗次郎……聞いてるのかな、俺の声。どんな顔で、どんな気持ちで、そこにいるんだ……?  助けて、と叫べば宗次郎が行為を中断させてくれる。でも、今叫べば、男に脚を開いて涎を垂れ流している姿を見られてしまう。 「う、あ……! いいな、お前……やべぇ」 「あっ……! あ、あんっ……!」  宗次郎のことを考えれば考えるほど、身体の感じが良くなる。尾形は獣のように腰を振り、どこまでも身勝手に菊之丞を穿つ。  怖い、痛いと思っているのに、宗次郎の顔を思い出すにつけ、菊之丞の性は甘く疼いた。加えて、どういう訳か痛みと恐怖が菊之丞の快感を加速し、尾形よりも早く絶頂を迎えてしまっていた。 「あっ……!! うっ……ん!」 「なんだぁ? てめえ、客より先に出すとはどういうこった。いやらしい餓鬼め」 と、尾形はにやにやと笑いながら動きを止める。菊之丞は喘ぎながら、うっとりとした表情で尾形を見上げる。 「……す、みません」 「そんなに良かったのか、こんな目に遭わされてんのによ」 「はい……こんなの、初めてで……」 「ほう、可愛いことを言う」  客相手にこんなにも早く達してしまうことは、本当に初めてだった。尾形に唇を塞がれながら、菊之丞はまた宗次郎を想う。  ――あいつにこんなことをされたら、どんな気持ちになるんだろう……。あいつはどんな顔で、どんな声で、どんな熱さで、俺に触れるのかな……。  気づけばことは終わっており、尾形は肩で息をしながら菊之丞の上にかぶさっている。がっちりとした筋肉質な身体は汗ばんでいたが、齢二十五、六という若さのためか、今まで見世で相手をしてきたおやじ共のようには嫌悪感を抱くことはなかった。 「気に入ったぜ、菊之丞」 「……ありがとうございます」 「とんでもねぇ餓鬼がいたもんだぜ」  着物を羽織っただけの格好で尾形は立ち上がると、どかどかと足音をたてて部屋を横切り、ぱっと勢い良く襖を開けた。そして、そこに正座をして固まっている宗次郎を見下ろして、にやりと笑う。 「おい、終わったぜ」 「……」  宗次郎はゆっくりと顔を上げ、開け放たれた襖の向こうから菊之丞を見遣る。 「あ……」  宗次郎の表情が一瞬悲しげに見え、菊之丞ははっとした。しかしすぐに仮面を被るかのように無表情になると、宗次郎は深々と尾形に頭を下げ金を受け取る。 「気分はどうだい、用心棒」 「気分、と申しますと?」 「惚れた相手の喘がされる声を、こんなとこで聞かされる気分だ」 「……」  宗次郎は無表情のまま一つ息をつくと、今度は愛想の良い笑顔でこう言った。 「惚れるも何も、俺は男には興味が湧きやせんから。今後とも菊之丞をご贔屓に、よろしくお願い致します。尾形様」 「ふぅん……」  尾形はしげしげと宗次郎を見下ろしていたが、不意に興味を無くしたようにため息をつき、ぼりぼりと頭を掻いた。 「まぁいいさ、近いうちにまた呼ぶからよ」 「はい。では、失礼致します」  尾形が稽古場から去っていくのを見送って、宗次郎が菊之丞に近付いてくる。  さっきまで感じていた昂ぶりが、氷水によって一気に洗い流されてしまうような思いであった。菊之丞は涙を堪え、汗に濡れて冷え切った身体を、自分の腕で抱きしめる。 「菊、帰るぞ」 「……」  さっきの怒りに染まった目は、何だったのだ。あんな顔、見たことなかったのに。  ――……いや、違う。俺がそう思いたかっただけなのかもしれない。尾形様はただからかっただけで、俺が勝手に喜んだだけの話だ。  ――そうだ、俺が……望んでいただけのこと。だからそんな顔に見えたんだ。それだけだ。  菊之丞は汗や体液で濡れた襦袢を脱ぎ、ことが始まる前に落とされていた着物を素肌の上に着込む。  黙って床を拭っている宗次郎が立ち上がる気配がしたかと思うと、ふわりと暖かいものが背中を覆う。  宗次郎の羽織だ。 「身体を冷やしちゃいけねぇぞ」 「……」 「帰ろう、菊」  仕事の後の陰間の身体を温めるのは、付き人の仕事の内だと分かっていても、そんな宗次郎の優しい口調が辛いと感じる。  菊之丞は何も言わずに、先に立って歌舞伎座を後にした。

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