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第22話

 カランカランと、ドアの上部に取りつけている鈴が鳴った。 「いらっしゃいま――ああ、おはようございます」  カウンターの中にいた美月は、客の顔を見て顔をほころばせた。 「やあ、元気そうだね。美月くん」 「はい。おかげさまで」  ほほえんだ美月の髪はすっきりと短いショートになっている。かつて艶やかな髪に隠れていた細く白いうなじが、窓から差し込む光に撫でられていた。前髪はななめに流す形で、すこし長い。額を隠すその髪型に、客――川上――が目を細める。 「やっと、その姿を見慣れてきたよ。君はずっと、髪が長かったからね」 「ええ。ですが、あの髪型ではとても邪魔……というか、大変で」  ふっと自分の隣に目を向けた美月の瞳が、慈愛に満ちたものになる。手を伸ばした美月は、両腕におさまるものを抱き上げて川上に見せた。 「ほら、和希。川上さんがいらっしゃったよ」  それは、すやすやと眠る赤子だった。まだ首がすわっていない頭を二の腕で支えられている和希のほほを、川上がそっとつつく。 「元気そうだね」 「元気すぎて、寝不足ですよ」 「でも、顔色はいい」 「和真がいてくれますから」  和希をカウンター奥に設置しているベビーベッドに戻すと、美月は奥の扉に顔を入れて和真を呼んだ。しばらくして、籠を手にした和真が現れる。 「おはようございます、川上さん」 「おはよう、和真くん。注文の品はできているかな」 「ええ」 「それじゃあ、行こうか」  はいと答えてカウンターから出た和真が、ベビーカーを用意する。美月はそこに和希を乗せて、川上の後を追った。  店の鍵を閉めてワゴン車に乗り込み、到着したのは川上の会社。洋菓子の商品開発部がある、本社ビルだった。はじめてここに来たときから、一年ほどしか経っていないのに、ひどく遠い記憶に感じて、美月は飾り気のないエレベーターホールや銀色の壁のエレベーターをながめた。  商品開発部のドアを開けると、わあっと明るい声が上がった。面食らった美月のそばに、見覚えのある顔が駆け寄ってくる。 「おひさしぶりです、美月さん」 「髪、切っちゃったんですね。もったいないけど、すごく似合ってます!」 「わあ、赤ちゃん。かわいい」 「ほらっ、静かにしないと起きちゃうだろっ」 「抱っこ、してもいいですか」  次々に声をかけてくるのは、あの日、美月とともに外出をしたオメガたちだった。 「やあ、久しぶり――」 「う、ああーんっ!」  むずむず動いた和希が、大きな声で泣いた。オロオロするオメガたちに「大丈夫だよ」と言って、美月は和希を抱き上げる。 「すみません」  開発部の面々に、美月は頭を下げた。 「赤ちゃんは、泣くものです。ねえ、みなさん」  川上が、気にしなくていいと表情で告げる。美月はうなずき、和真を見た。和真は持ってきた茶葉を社員に見せる。 「注文のブレンドです。どうぞ、確かめてください」 「それでは、みんなで味わってみましょう」  ポンッと肉厚の手のひらを合わせた川上の合図で、社員たちはシャ・クシネの商品をテーブルに並べた。和真はポットに茶葉を入れて、湯を注いでいる。真剣そのものの横顔に、美月の唇が自然とほころぶ。腕の中の和希は、ふにゃあと情けない泣き声を上げ続けていた。  和希がようやく落ち着くころに、すべての準備が整った。それぞれの洋菓子に合わせて、和真が調合したお茶がふるまわれる。うんちくなどは語らずに、まずは味わってほしいと和真は勧めた。 「さあ、いただこうか」  川上がお茶に口をつけ、ケーキを味わう。わいわいと素直にたのしむオメガたちとは違い、川上や社員の目は厳しく光っていた。期待と不安とともに、しっかりと和希を抱きしめる美月の横で、和真も表情を硬くして評価を待っている。  ひとつ、ふたつ、みっつと、それぞれテイストの違うケーキとお茶を確かめる川上の顔に、柔和さはかけらもない。仕事をする人間の顔になって、水で口の中を洗いながらチェックしている。  すべてを確認し終えると、川上は社員に目を向けた。社員たちが顔を見合わせ、うなずきあっている。 「問題ありません。それどころか、すごくいい」  部長が口火を切ると、次々に賛辞が飛び出した。それを聞いて安堵した和真に笑みかけられて、美月も「よかった」とほほえみ返した。 「すごいね! こんなにいろんなお茶が作れるなんて」 「美月さんは、いつもこんなにおいしいものを飲んでいるんですか?」 「僕、チョコレートに合うものがほしいです」 「これ、もう一杯いただけますか?」 「康孝にも飲ませてあげたいなぁ」  緊張感が失せたからか、オメガたちがにぎやかになる。和希はキョトキョトと顔を動かして、物珍しそうに周囲を確認していた。 「ありがとう、和真くん。これをぜひ、うちで売らせてもらいたい。もっと気軽に淹れられるようティーバックにしたいんだが、どうだろう」 「それはいいアイディアだと思います。ですが、安定しておなじ味を提供するためには、そのときそのときの茶葉やハーブの状態を見なければならないので、いきなり大量生産というわけには」  うんと川上がうなずいた。 「まずは、喫茶コーナーを併設している店舗で提供をするつもりでいるよ。本店で試してみて、それから他店舗でも提供をするかどうかを検討する。スタッフは素人だからね。おいしく淹れるために、ティーバックにして分量を決めておきたいんだ」 「そういうことでしたか」 「どうだろう」 「それなら、ポットの大きさとティーバックの形状を相談しましょう」 「うん。よろしく頼むよ」 「こちらこそ。よろしくお願いいたします」  川上と和真が固い握手を交わす。和希が「あー」と言って美月を見上げた。まんまるい目に美月が映っている。 「よかったね」 「うー」  ひとまずの恩返しができたと、美月はうれしくなった。 (まさか、こんな提案をされるなんて思わなかったな)  あの日、病院で和真が言っていた取引とは、シャ・クシネの商品に合わせたお茶の調合だった。どちらもが調和をしてこそ至福の時になる。その開発をすることを条件に、美月を助けてほしいと和真は川上に言ったのだ。  大会社の社長でありアルファでもある川上に、ただの街の茶葉屋でしかないベータの和真が交渉を持ちかけるなどありえない。それなのに和真は、己の腕に自信をもって言ってのけた。川上はそれを受け、美月を館から引き取って出産までの費用を結婚の祝儀だと出してくれた。そしてふたりにこう言ったのだ。 「末永くしあわせに。そんな気持ちになれるお茶を、いつまでも飲ませてください」 (すべて、川上さんのおかげだ)  具現化した幸福を胸に抱きしめ、美月は深く感謝する。手を伸ばしてきた和希が、美月の唇をひっぱった。 「あー、う」 「ふふ」  ミルクの匂いのするあたたかな存在に頬をすり寄せ、美月はなにか――形のないおおきなものに「ありがとうございます」と祈りをささげた。  話し合いが終わって、美月たちは店に送られた。 「次の開発会議は来週の金曜日に」 「はい。それまでに、こちらもいろいろと考えておきます」 「そうそう。忘れるところだった。頼んでおいたアレをもらわないとね」  川上がいたずらっぽくほほえんで、和真がすぐに奥からそれを持ってくる。ラベルのない銀色のお茶の袋には、手書きでセレーネと書かれていた。 「ありがとう。祐樹くんは、これがないと心配で眠れなくなると言っていたよ」  冗談めかした口調に、美月は苦笑した。 「祐樹は、元気にやっていますか」 「うん。とても元気だ」 「護衛戦はどうなりました?」 「開催はされたけど、それで護衛が変わるなんてことにはなっていない。だから、秋定くんは祐樹くんの護衛のままだよ」 「そうですか」  ほっとした美月に「あそこはなにも変わっていない」と言いながら、川上はベビーカーの中をのぞきこんだ。和希の頬に触れようと伸ばした川上の指が、ちいさな手に握られる。川上は「おお、おお」とうれしそうに首を振った。 「祐樹くんも、和希くんに会いたがっていたよ」 「僕も、祐樹に和希を会わせたいです」 「首がすわったら、会いに行ってみるかな」 「えっ」 (それは、館に僕が行くってこと……なのか? だけど僕は顔に傷跡が残ったから、川上さんが引き取ったって話になっているのに)  行けるのかと疑念を持った美月に、わかっているよと川上が目顔で告げる。 「顔は半分を包帯でおおえばいい。見えづらくなるだろうから、足元には気をつけて」 「僕が館に行っても、変には思われないでしょうか」 「引き取ったオメガを連れて行くだけだからね。なにより、会いたいだろう。お互いに」 「――はい」 「それじゃあ、来週の金曜日。おなじ時間に迎えにくるから」 「よろしくお願いします」  和真と美月は並んで頭を下げた。川上が名残惜しそうに和希に別れの挨拶をして去っていく。見送った美月と和真は顔を見合わせ、寄り添った。 「ひとまず、これで恩返しの第一歩ができたわけだな」 「川上さんは、どうしてこんなに親切にしてくれるんだろう」 「そこは……人にはいろいろあるってことじゃないのか」 「うん」 (若いころにいろいろあったって、前に言っていたけど)  それを聞くのは無粋だと、気になりつつも好奇心を抑えた美月は、和真の肩に頭を乗せた。短くなった髪が、和真の長い指に梳かれる。 「時々ふっと、これは夢なんじゃないかって思うことがあるよ」 「俺もだ」 「和真も?」 「しあわせすぎて、おそろしくなる」  和真の背中に腕を回すと、抱きしめられた。ベビーカーの中で和希がスヤスヤ眠っている。 「ほんとうに、僕はここにいていいのかな。いろんな人に迷惑をかけて、それで……こんなにしあわせになっていいんだろうか」  広い胸に額を押しつけて独白すると、それは違うと顎を持ち上げられる。 「迷惑じゃない。頼られて、助けたいと思って、その結果こうなっているんだ。美月は祐樹に助けを求められたら、どうする」 「それは、できる限りのことをするよ」 「そういうことだ。それで迷惑をかけたと言われたら、いやな気分にならないか?」  すこし考えてから「なるかもしれない」とつぶやくと、「そういうことだよ」と返された。 「でも――」 「もしも迷惑をかけたと思うなら、迷惑をかけたぶんだけしあわせになればいい。相手が、力を貸してよかったと思えるくらい、しあわせになろう。それがいちばんの恩返しだ。――きれいごとにしか聞こえないか? でも、きっと祐樹ならそう考えるんじゃないかな」 「そう、かもしれない」  快活な祐樹の笑顔を思い出し、美月は不安に目を揺らしながらほほえんだ。 「あのときに助けてもらって、どんなにありがたかったかを伝えて、次は頼られる側になればいい」 「なれるかな」 「なれるさ。祐樹は、美月には素の自分を見せていたんだろう? それはつまり、それだけ信頼してくれているということなんだから」  自信を持っていいと言われて、美月ははにかんだ。 「そのために、俺は努力をしないとな」 「お茶のこと?」 「それもある。だけど、それは一部でしかない」  どういうことかと美月がまばたきをすると、和真は照れくさそうに目じりをゆるめた。 「自慢できるくらい、美月にしあわせになってもらうために、がんばるってことだよ」 「――和真」 (そんなこと)  和真がこうして抱きしめてくれるだけで充分だ。そう言いたいのに、胸がふさがれて言葉が出ない。代わりに美月は背伸びをして、軽く和真の唇をついばんだ。 「ふふっ」  漏れた息を、和真の舌がすくいとる。そのまま唇を重ねられ、角度を変えて何度もついばみあって――。 「あの、すみません」  カランカランと店の入り口が開かれた。 「お茶を買いたいんですけど……いいですか」  遠慮がちな声に、ぱっと体を離したふたりは照れながら笑いかけた。 「はい。どんな気分のものをお望みですか。あなたの気分に合わせたお茶を、調合しますよ」

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