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第4話 命がけの初恋

 確かにただの老人だと伝えると、村長は安心しきったように手間賃を払おうとしたが、ゼスはそれを断った。  その代わり、老人がみまかるまで通うから衣食住を用意してくれと言うと、不思議そうな顔をする。それに何の意味があるのだと問う。 「若者たちの中にはまだ、彼をヴァンパイアだと疑う者がいる。彼の身の安全を図る為です」  手間賃よりも安い打診に、村長は条件を飲んだが、やはり最後まで狐につままれたような顔をしていた。  それから毎日、ゼスは古城に通った。  ラッドは、時に棺の中に、時にロッキングチェアーの上にいた。毎日少しずつ話をした。  ラッドの母は異形の子を生んだ事に病んでいて、一度も愛情を受けた事がない事、母以外の人間と話した事がない事、自分はあと数週間で死ぬだろうという事――。  毎日少しずつ、ラッドが死を待つだけの心境になった生い立ちが明らかになる。  だがユーモアを失ってはおらず、時々ウィットのきいた冗談を言って、ゼスを笑わせた。  一週間が経つ頃には、二人はすっかりうちとけあって、まるで気のおけない旧知の友のようになっていた。  けれどそれは、束の間の友情だ。ラッドの命と共に終わる、期限付きの友情だった。  日に日に、ラッドの濁った目から生気が失われていくのが分かる。ゼスには、耐えられなかった。  十日目に訪ねた時、ゼスは棺の中でまどろむラッドの掌に、あるものを握らせた。 「ゼス……? これは?」  すっかり盲いてしまった目で、懸命に見ようとしながら、ラッドは尋ねた。  それは、城の中庭に群生する、一本の花だった。だが一本といっても、細かく分岐した繊細な小枝の先に、細長い鐘形の白い小花がびっしりと固まって咲いている。 「この城の中庭に咲いている花だ。一本だけ白い色を見付けたから、珍しいと思って」  ラッドは壊れものに触るように、片手で茎を握り、片手でそっと花の形を確かめた。 「ああ……これは……私の為に、母が植えてくれた花だ」 「何の花か知ってる?」 「いや……この花を植えた直後、母は首をかき切った。きっと、残される私への、せめてもの慰めと思ったのだろう」  棺の中に横たわるラッドの両手ごと花を握り、ゼスは言った。 「この花は……エリカ。花言葉は、『孤独』」 「『孤独』……私に相応しいという訳だな」  少し皮肉っぽく笑って、ラッドは小さく咳き込んだ。  だがゼスは、意を決したように内に情熱を秘めて、静かに続けた。 「エリカの花は本来、薄紫色なんだ。白いエリカには、違う花言葉がある」 「……なんだい?」 「『幸せな愛』。……なあラッド、いつか君にも幸せな愛が宿るだろう。愛も知らず、こんな風に死ぬ必要はないんじゃないか」 「ゼス……」  まだ午前なのに、夕暮れみたいな寂しい声音で、ラッドは呟く。 「私にとって、この命こそが苦しみなのだよ。誰からも必要とされず、見付かれば狩られるしかない、この生には、闇しかない……」 「……俺が必要としてる」  この花を見付ける前に、すでに決めていた事だった。  ゼスは分厚いローブを脱ぎ落とすと、一番上まできっちりと留められていたシャツのボタンを二つ、外す。静脈の透ける淡雪のような首筋が露わになった。 「君を死なせたくない……脈動を、感じるだろう? 血を吸ってくれ……」 「ゼス……何を……っ!」  ラッドの口元に、ゼスは身を折って首筋を差し出した。 「や……やめろ、ゼス……」  見えなくとも、本能でラッドの脳裏に、ゼスの瑞々しく躍動する血脈が浮かび上がる。ラッドは忌み嫌ってきた吸血を、狂おしいほど欲している自分に気付き、激しく苦悶した。 「さあ、ラッド……お願いだ……」  その時。二人以外の悲鳴が上がった。  ゼスがハッと振り仰ぐと、村の若者たちが開いた扉からこちらを窺っていた。気配から察するに、ざっと七~八人。ラッドに夢中になっていて、気が付かなかった自分に、ゼスは舌打ちをする。  スコップやハンマー、木の杭を持った若者たちは、驚きから立ち返って、虚勢を張った。 「やっぱりヴァンパイアじゃねぇか!」 「ミイラ取りがミイラになってたとはな」 「昼間はヴァンパイアは動けねぇ。子分からやっちまえ!」  多勢なのが、若者たちの気を大きくさせていた。幾らゼスでも、この人数は無傷では済まない。 「待ってくれ! 彼はダンピールだ。まだ誰の血も吸った事のない……」  弁解の余地を与えず、いきなり一人がボウガンを撃ってきた。素早い身のこなしで辛うじて急所は外したが、若者たちの本気を見誤ったゼスのミスだった。  肩に深く突き刺さった矢の端を、戦いに備えてゼスは折った。  だが、もう身じろぐのがやっとだったラッドが棺から素早く起き上がり、ゼスの前に両手を広げて立ち塞がった。そのスピードは、瞬間移動したようにも見える速さだった。  怒りが、ただでさえ長身なラッドを、ふた回りも大きく見せていた。 「う、動きやがった!」 「怯むな、『合いの子』だからだ!」 「そうだ、ただの爺いだ、やっちまえ!」 「ラッド!」  止めようとした時にはもう、ラッドは斧で肩からわき腹までを斜めに裂かれていた。真っ赤な血しぶきと苦鳴が上がり、ラッドは片膝を付く。 「ホントだ、こいつ弱ってるぞ」 「今だ! 行け!!」 「ラッド! やめろォッ!!」  ラッドの身体で影になって見えていなかったそれが、彼の心臓を貫通して背中から飛び出してくるのが見えた。それとは、木の杭だった。  絶叫が上がる。おおぉん。その叫びは、この世の者ならぬ、質量を伴った恐怖の塊となって、若者たちに叩き付けられた。 「ヒ、ヒィッ!」 「逃げろ!!」  まともに食らった若者たちは、みな恐れおののいて、こけつまろびつして一目散に逃げていった。  あっという間の出来事だった。若者たちを撃退した後、心臓に杭の刺さったまま、ラッドはぐらりと後ろに倒れてきた。 ゼスは必死にそれを抱き止め、頭を膝に乗せて、彼の名を呼ぶ。 「ラッド……ラッド……! 死なないでくれ、ラッド……!」  新緑色の瞳から大粒の涙を流し、ゼスはただ彼を失いたくないという思いだけで動いていた。  戦闘用の長剣の鞘に革ベルトで留められた、サバイバル用の短剣を抜くと、迷わず己の横首を薄く裂く。鮮血が、ラッドの顔にパタパタと落ちた。 「ラッド、飲んでくれ、早く……っ」  死相の出ているラッドの唇に、自ら傷口を押し当てる。しかし彼の身体は冷たく、ピクリとも動かなかった。 「ラッド……君がいないと生きていけない……愛してるんだ、ラッド……」  死なせたくない、友情だと思っていた感情の正体は、命懸けの初恋だった。  口をついて出た言葉に、ゼスは己で驚く。  幼い頃からハンターになるべく厳しい修行を積み、恋愛になど縁のない生活だった。皮肉にも、初めて感情が動いたのは、狩りの相手だったという事だ。 「ラッド……愛してる……」  もう一度、涙声でそう囁くと、二人分の血液にまみれていたラッドの唇が、微かに動いた。 「ん! アッ……」  ラッドの目と口がカッと開いたかと思うと、ゼスの首筋を尖った糸切り歯で食い破った。下からゼスの頭を抱き込み、ごくりごくりと喉を鳴らしてラッドは息吹を吹き返す。 「ぁ、あぁ……ラ、ッド……!」  吸血される人間は、性行為と同等の快感を得ると師から教わっていたが、それは想像を絶するものだった。身体中を全身隈なく同時に愛撫されているような、過ぎる快感にゼスは意味を成さない呻きを漏らす。  痩せぎすだった胸板が逞しく張り出し、杭は押し出されてずるりと抜け落ちた。  ゼスには見えなかったが、瞳は爛々と紅く輝き、顔の皺は消えていった。白かった髪は、あの肖像画のようにかつての黄金の輝きを取り戻した。 「ラッド……!!」  その声で、ラッドは我に返った。そのまま吸血を続ければ、ゼスを失血死させる所であった。 「……ハー……」  ごろりと体制を入れかえ、床に転がったゼスの首の横に両手をついて、ラッドは深く息をはいた。  今ゼスと見詰め合っている顔は、父の肖像画によく似た、精悍で、より逞しい男のものだった。 「良かった……ラッド……」 「ゼス……悪りぃ……俺は、ゼスの血を……」  罪悪感にさいなまれて眇められる紅の瞳に、だがゼスは優しい微笑みを映し出した。  両腕をラッドの首に回し、されるがままのラッドに、唇をそっと重ねる。 「君に吸血させたのは、俺のエゴだ。君と、ずっと一緒にいたかった……」 「ゼス……大丈夫か? 痛くねぇか?」 「痛くない……」 「でも……」  と、ラッドの指が、ゼスの頬を濡らす涙に触れた。その暖かさに怯えるように、一度ビクッと手を引いてから、再びゆっくりとそれを拭う。 「これは、ラッドが生き返って嬉しいから……それと……身体が……」 「どうした」 「ふふ……君は、君自身の事を何も知らないようだな。吸血されると、凄く、その……」  言葉を選びかねるように言いよどむのを見下ろして、ラッドはまた溢れたゼスの涙を拭った。 「気持ち、良いんだ」 「……そうなのか?」 「ああ……動けないくらい。駄目だ……失神しそう……」 「休め、ゼス……部屋なら幾らでもある。運んでやろう……」  その声を、ゼスは遠くの方で聞いていた。ラッドが生き返った安堵と、吸血のショックとで自然と瞼が落ちてきて、意識は空っぽにすりかえられた。

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