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 日中の喧騒が嘘のように静まり返った夜の社内はまるで別世界だ。  廊下に面したフロアから漏れる照明の光は弱く、残業を強いられている者のため息が亡霊の息遣いに聞こえる。  外資系商社で就業形態も本社に倣えというのは、ここ日本では到底無理な話だ。生活習慣も違えば、日本人特有の気質もある。  支店とはいえ、国内有数のビジネス街の一画に位置し、自社ビルを構えるほどの有力企業。そこに勤務する社員もまた有名大学を卒業した、いわばエリート揃い。  大手企業との取引を一手に引き受ける営業一課主任である岩崎(いわさき)颯真(そうま)もその一人だった。  一八三センチの長身に、端正ではあるがどこか甘さを含んだ顔つき、常にブランド物のスーツを纏うその体は筋肉質で、モデルと見紛うほどバランスがいい。  愛用のムスクも嫌味がなく、女性社員が食事に誘わない日はないというほどモテる。  噂では毎晩、違う女性と逢瀬を楽しんでいるとか、いないとか……。  そんな彼が非常灯の明かりしかない資料室で、壁に向かい熱心に甘い言葉を囁いている。  段ボールが置かれたスチール棚が幾通りも並ぶ資料室の奥は、もしも誰かが出入り口のドアから顔を覗かせても絶対に見られることはない。 「――主任、この時間に、こんな所に呼び出すなんて非常識にもほどがありますよね?」  ひんやりとした白い壁に凭れながら、ため息交じりに颯真を睨みつけていたのは、彼の部下である藤原(ふじわら)美弦(みつる)だった。  顔のすぐ横には彼の大きな手があり、体は向かい合ったままほぼ密着している。  世に言う“壁ドン”されたまま互いに見つめ合う――いや、正確にはそうしていたのは颯真のほうだけではあったが――ここに来てからかなりの時間、膠着状態が続いていた。  その状況に痺れを切らしたのは美弦の方だった。 「さっきから、何言ってるかよく分からないんですが……。もしかして、俺に告ってます?」  少し上にある端整な顔は暗くてほとんど見えないのだが、先程からボソボソと独り言のような呟きは聞こえてはいた。その言葉の端々に「好きだ」とか「付き合ってくれ」という語句が散りばめられていたことで、美弦は何とか理解することが出来たのだ。  今から三年前、二十九歳という若さで主任になった彼は業績優秀で、上層部からの信頼も厚く、課長の席も目前と噂されている期待のホープ。三十二歳になった今でも独身で、たった一人でタワーマンションの上階に住み、高級外国車を数台所有しているという、誰が聞いても憧れの存在。  女性にも不自由ないと思われるそんな彼が、男である美弦を人気のない夜の資料室で口説いている光景は異質とも思えた。 「もしかして……主任ってゲイなんですか?」  冷めた目で野性味を帯びた双眸を見つめると、彼は照れたように少しだけ俯いた。 「――さっきから言ってるだろ。聞いてなかったのか?」  吐息交じりに囁かれた声は低く、少し掠れてはいるが艶のあるものだ。  颯真は自分の説明不足だったのかと猛省したのは一瞬で、それよりも羞恥の方が勝った。  あんな台詞を二度も繰り返すなんて出来ない……。そう悩む彼に突きつけられた言葉は予想以上に冷酷なモノだった。 「聞いてなかったんじゃなくて、聞こえなかったんです。いつも『言い訳するな、ハッキリ言え!』って言ってる本人が、まるで独り言みたいにブツブツと……。何言ってるか、ホント分からない」  上司を目の前にして物怖じしない口調でキッパリと言い切った美弦は、勝ち気な栗色の瞳をすっと細めた。  痛いところを突かれたと言わんばかりに眉を顰めた颯真は、大きなため息をつきながらガクリと項垂れる。 「聞こえなかった……のか」 「ええ……」 「じゃあ、最初から説明する。今度はちゃんと聞いてくれ」 「俺、もう帰りたいんですけど」 「手短に話す。いいか? 俺は……」  最初から手短に話せる内容であれば、長い間この状態でいる必要などどこにもないはずだ。  しかも、チャンスがあればすぐにでも戴けるようなシチュエーションを作った颯真の下心に、美弦は半ば呆れ返っていた。  見目麗しいエリート主任、その実態はところかまわず犯す、ヤリたいだけの野獣のようなゲイ。 (最悪だな……)  視線を遮る長い前髪を煩わしそうにかき上げた美弦の手首がいきなり掴まれる。 「なっ! ちょっと、離せっ」 「藤原っ!」  突然、鼻息荒く取り乱し始めた颯真に美弦は焦った。  今までのムーディーな雰囲気から一変、本能を剥き出した彼に危機感を感じた美弦だったが、体格差もあり、いくら抗っても力では颯真に敵うはずがなかった。  両手の自由を奪われ、ゆっくりと近づく顔。ふわりと揺れるムスクの香り。 キスされる……と、咄嗟に顔を背けた瞬間、ふっと手首の圧迫が解けた。  そして次の瞬間、足元に崩れ落ちるように両膝をついた彼は、床に貼られたビニール製のシートに頭を押し付けて叫んでいた。 「単刀直入に言う! 一度でいいからお前を抱かせてくれ!」  資料室に響いた彼の悲痛な叫びは、余韻を残すことなく静寂に呑み込まれた。  先程までの甘い囁きは何だったのだろう……。時間の無駄遣いも甚だしい。 その挙句――。 (“手短に”叫んだセリフがこれか……)  颯真ほどの男ならば、同じセクシャリティを持った相手ならば放っておくはずがない。  女性だけでなく、確実に男性にもモテる素質は十分あるはずなのに……。なぜ、あえて美弦を選んだのか。 その疑問を誰よりも知りたいと思ったのは、斯く言う美弦本人だった。 衝撃的な告白に目を見開いたまま動けずにいる美弦を見上げた颯真の目は真剣で、それでいて何かに縋るようにも見える。 エリート主任が土下座しても抱きたい男――確かに、細身で色も白く、女性的な顔つきである美弦は、颯真に引けを取らないくらい男女からモテていた。 しかし、特定の相手を作るのが煩わしいという理由で、現在付き合っている者はいない。 そうかといって、一夜限りのアバンチュールのような中途半端な付き合い方を嫌い、それをするくらいなら一人の方が楽でいいという。 それ故に、上司だから……という特別な概念は、今の美弦には皆無だった。 「――嫌です! 俺、ノンケなんで」 「ノンケでもいい! 頼むっ。少しの間だけ……いや、一瞬でいい。お前の尻に俺の先っぽだけ入れさせてくれ!」 「はぁ? 先っぽって……」  高級フレンチレストランで、深紅のバラの花束を片手に、気障なセリフを並べ立てそうな彼が発した予想外のフレーズに、美弦は呆気にとられた。  それほどまでに欲求不満ならば、風俗店にでも行けばいい。自分の趣味に合った店などいくらでもあるはずだ。  それをすることなく、あえて美弦に頭を下げる彼の意図が読めずに困惑していると、颯真は不意に彼の手を握り声を震わせた。 「頼む……。お願いだっ」  切羽詰まった彼の様子に何かあると確信した美弦は、その気は全くなかったが事情だけでも聞いてみようという気になった。 「どうして、俺なんですか?」 「お前にしか頼めないんだよ。こんなこと……恥ずかしくて」 「恥ずかしい? そんなにヤリたいんなら店にいっ……」 「ダメなんだ! 絶対にダメ! 店になんて行ったら俺の人生は終わるっ」 「は?」  言いかけた言葉を遮るように叫んだ颯真は握っていた手を離し、力なく床について項垂れた。  乱れた呼吸を落ち着けるかのように広い背中がゆっくりと上下している。  ひと際大きく息を吐き出したあと、颯真の口から思いがけない言葉が紡がれた。 「――理由は聞くな。とりあえず……ヤらせてくれ」  あからさまに嫌悪感を剥き出しにした美弦に気付いた颯真は、床に頭を擦りつけた。  部下である彼に対して、これほど強引でデリカシーがなくて、センスも雰囲気も全く無視、ただ『セックスがしたい』と頭を下げる上司がどこにいる。  三十二年間生きてきて、これほど自分が嫌いになった事などあっただろうか。  颯真は黙り込んだままの美弦を薄目を開けて見上げた。  きっと、呆れているだろう。今まで、こんな情けない姿を部下に見せたことがないのだから。 「お願いだ! お前が望むことは何でもする! 残業はさせない! 食事も奢る! だから……」  両手を合わせて拝むように声をあげた颯真に、美弦は乱れた襟元を直しながらキッパリと言い捨てた。 「お断りします!」 「え……?」 「そもそも……。なんで俺があなたに抱かれなきゃいけないんですか? 恋人でもない相手の――しかも男のチ〇コを受け入れろなんて、セクハラもここまでくると犯罪レベルですよね。あーあ、貴重な時間を無駄にしたっ。俺、帰りますから」  颯真は押し退けて歩き出した美弦の腕を咄嗟に掴むが、思い切り振り切られる。 「藤原! お前のことが好きなんだよっ」  何気なく発せられたその言葉に、それまで我慢していた美弦の堪忍袋の緒がブツリと派手な音を立てて切れた。  例え一夜限りの付き合いが面倒だったとしても、何の感情も持たない相手の心の隙間に付け入ろうとする魂胆が見え見えな相手ほどイラつくものはない。そういう相手は男女関係なく完全にシャットアウトするのが美弦のやり方だ。 「その……場当たり的な言い草、やめて貰えますか。ヤらせて貰えればそれでいい……。今のあなたの言葉には何の感情も見いだせない。失礼しますっ」 「藤原っ!」  バタンッと叩きつけるように閉められたドアをじっと見つめていた颯真は、その場に座り込んだまま項垂れた。  きちんとセットされた髪は乱れ、ブランド物のスーツも皺だらけになっている。  自身がどれほどの思いで彼に懇願したのか……。 「何も分かってない……」  握った拳を床に数回叩きつけて、目尻に滲んだ涙を指先で乱暴に拭うと、颯真は勢いよく立ち上った。  残された時間はわずか……。  ここで諦めたら、何でも完璧にこなしてきた自身のプライドが許さない。 「絶対に藤原を抱く! 俺は絶対に――っ」  誰もいない資料室に力強い声が響く。固い決意を表すかのように拳を握り、ガッツポーズで立ちつくすのは営業部きってのイケメンエリート。  難攻不落と言われる案件ほど闘志を燃やす彼の気質を、より煽ってしまったことなど知る由もない美弦。  彼は、いろいろな意味で……最低・最悪なセクハラ上司を敵に回したことを、あとで後悔することになる。

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