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【1】

遡ること一週間前――。 主要ターミナルにほど近いタワーマンションの上階にある自宅に帰った颯真は、エントランスに備え付けられたメールボックスの中身をリビングのテーブルに放り投げた。 予想外に難航している新規取引先との商談にイラつきを隠せず、ネクタイを乱暴に緩めながら上着をソファの背凭れに無造作に掛けた。 チラッと視線を向け、散らかった自分あての郵便物を眺める。 高所得者が住むこのタワーマンションの住民をターゲットにしたケータリングや家事代行サービスなどのダイレクトメールに紛れ込むように、そうそう目にすることのないクリーム色の封筒が混じっていることに気付く。 長い指でそれを引き抜き、送り主の名を確認すべく封筒を裏返すと、ロゴマーク付きで『財団法人 日本遺伝子学協会』と印字されてり、しかも『親展』の赤いスタンプまで押してある。 颯真は自身には全く縁のない場所から届いた郵便物に不信感を募らせながらもレターオープナーでその封を切った。 丁寧に三つ折りされた用紙は三枚。それを広げて印字された文字を目で追っていく。  一枚目には颯真の名前、住所、本籍地、生年月日、両親の名前、最終学歴、現在の勤務先に至るまでこと細かに記されていた。これ一枚あれば履歴書に代用できるのではないかと思うほど完璧に仕上がっている。  しかし、なぜ遺伝子学協会が自身のデータを持っているのかが不思議でならなかった。  新手の詐欺か……と警戒する。  近年、だんだんと巧妙になっていく詐欺の手口は、手を変え品を変え、今では警官や弁護士になりすますこともザラだ。  事実、颯真の元にも不当請求のハガキやメール、電話などが来ていた。 「またか……」  小さく吐息しながら二枚目に目を通し始めると、彼の顔色がみるみる青ざめていった。  そこに書かれていたのは、颯真自身が知り得ないことだった。  今、この日本では国民の遺伝子情報を収集するために、出生時に両親の許可を得てあらゆる種類の遺伝子検査を行い、その中でも最も遺伝要因を受ける体質での検査結果にて、颯真が特異体質であると判明したというのだ。  両親はもちろんその体質ではあったが、日常生活には全く支障をきたすことはないという。しかし、ある一定期間または年齢に達するまでに性交渉がない場合、その体は変化するという。  その期間というのも個人差があり、一概にハッキリした数字を出すことが出来ないのが通例だが、颯真に限っては遺伝子情報が他の人よりも細かく、その数字を割り出すことに成功したというのだ。  その期間とは――。 「三十三年……だと?」  現在三十二歳である彼が次の誕生日を迎えた時、急激に体質が変化すると記されている。  一般的に健康的な男子であれば特に問題がない事例ではあるが、颯真の場合は思い当たることがありすぎた。  もう一度、数行前に戻って文章を読み返す。 『一定期間または年齢に達するまでに性交渉がない場合』  つまり――生まれてから一度も性交を経験していない場合はこれに該当する。  用紙を持つ手が小刻みに震え出す。 「まさか……だろ? こんなこと、あり得ないっ」  代々続く旧家の血筋である岩崎家の長男として生まれ、その後弟妹も出来なかったことから一人息子として両親の愛情を一身に受けて育ち、幼稚園から大学までエスカレーター式の名門私立学校に通い、海外留学を経て現在の外資系企業に勤務。  その間、恋人と呼ばれる存在は皆無で、自身がゲイであると自覚した中学二年生からは、女性は完全に恋愛対象外となった。しかし、ゲイに対して何かと偏見が多いこの国で、両親はもちろんのこと、誰かにカムアウトする勇気はなかった。それが原因でいじめが横行し、進学、就職に難色を示す学校や企業が数多く存在することを知っていたからだ。  ここ数年は、同性カップルの婚姻が認められる地域も出来てきてはいるが、法律として確定し実現しているわけではない。それに、そういったマイノリティを嫌悪する者も少なくない。  颯真は出来るだけ自身がゲイであるということをひた隠しにして生きて来た。そのせいで、多感な時期に女性との性交渉を逃し、さらに男性とも接触することもなかったのだ。  モデルばりの超イケメンエリート主任である岩崎颯真は、三十二歳にして未だ童貞なのである。  かといって、機会が全くなかったわけではない。毎日のように女性社員に食事に誘われる彼が、なぜ? と思うのが当然だ。  颯真ほどの男であれば一夜だけの付き合いでも十分に許される。それなのに……。  しかし、今もっとも重要視しなければならないことは、出来なかった性交渉を振り返るよりも、一定期間性交渉がなかった颯真の体質がどう変化してしまうかという事だろう。  ゴクリ……と渇き切った喉に唾を呑み込んで、三枚目の用紙を穴が開くほど見つめる。  そこに書かれていた驚くべき内容に、颯真は眩暈を覚え、ソファの背凭れに思わず手をついた。 「嘘だろ……」  力なく呟き、手にしていた用紙がはらりとフローリングの床に落とした。 『――これにより岩崎颯真氏が体質変化すると考えられる症状は、男性としての生殖機能は完全に失われ、味覚・欲求(性欲も含む)・言動・動作・体つきなどが女性特有のものへと変わると予想される。元来、男女共にあった子宮だが、進化の過程で男性に限り変異したものが現在の前立腺である。その部分が女性化により再び子宮としての機能を果たす者も、ごく稀にではあるが過去に症例として報告されている』  ここに書かれている内容を分かり易く単純に言い換えるならば――。 「俺……メス化するってこと、なのか……っ!」  その場に頽れ、両手をついて項垂れた颯真だったが、ふと何かを思い立って勢いよく立ち上ると、勇み足で書斎へと向かった。  ドアを開け、すぐ脇にあるスイッチを押して明かりを灯すと、窓際に置かれたデスクの上のノートパソコンの電源を入れた。  ゆっくりとした動作で椅子に腰かけ、徐々に明るくなっていくパソコンの起動画面をぼんやりと見つめた。 「これは悪質な悪戯だ……。俺のパーソナルデータなんて、ちょっと金を出せばいくらでも手に入る。それに、このインチキくさい財団法人が存在するのかどうかも怪しい。そもそも、国に委託されて遺伝子情報を収集するなんて、一体何に利用するつもりだ」  立ち上った液晶画面を睨みつけながら検索サイトを開き、慣れたタイピングで『財団法人 日本遺伝子学協会』と入力する。  すると、颯真の否定したいと思う心を嘲笑うかのように、ホームページが存在し、その内容も国がバックアップをしているという事が書かれている。  トップページに張り付けられているリンクバナーは各省庁の名が並び、詐欺や悪戯のために作った物とは思えないクオリティで、有識者の見解や論文なども載せられている。  誰が見ても完成されたものであることは、颯真が見ても一目瞭然だった。  それでも信じることが出来ない彼は、概要に記されていた電話番号を見つけると素早くメモした。  午後十時を回った今、電話が繋がるとは思えない。掛けたところで留守番電話に切り替わるのは目に見えている。それならば明日、外回りに出た時に掛けて確かめればいい。  電話が通じなかったり、使用されていない番号であれば、財団法人としての機能は認めない。  ホームページを隅々まで見渡して、新着トピックの見出しをクリックする。  そこには『個人遺伝子情報報告書の送付について』というタイトルで、詳細な説明は伏せられてはいるが、颯真に送られてきた封書の事が書かれていた。自分以外にも同じ特異体質の者がいるのか……と初めて気づく。  ここに大々的に公表されているところを見ると、かなりの確率で遺伝子変化による『メス化』を避けられない童貞男子が存在しているという事になる。  そういった稀少な存在は、現在問題視されている少子化に歯止めをかける役割を担うとも言われているらしい。 「冗談じゃない! この俺がメス化するだと? その辺のモテないオタク野郎共と一緒にするなっ。俺はやるべきことをやってきたからこうなったわけで、決してモテないわけじゃないんだぞっ」  容姿端麗、仕事も出来る、金銭面でも苦労は何一つない。ついでに言えば、未使用ではあるが颯真のイチモツは一般人のソレに比べればはるかに長く太い。これも、日々行われている鍛錬の成果なのだろう。  鍛錬と言っても、ただ自分で慰めるという寂しいものではあるが、常に孤独と射精後の虚しさと戦っている精神力は常人の域を超えていると自負している。  仕事だけでなく、ゲイ専門チャンネルで学んだテクニックには自信があり、それなりのプライドもある。  それなのに――。なぜか一度根付いてしまった不安は、なかなか消えてはくれない。  悪質な悪戯だと思う反面、これが事実だとしたら……という恐怖が付き纏う。  もしも、これが良く出来た作り話だとしたら、颯真ほどの男を――いや、この国に存在する全童貞を騙した詐欺師として、歴史上その名を後世に残すことだろう。  しかし、書面には金銭要求をほのめかす一文はどこにも見当たらない。  詐欺であれば、期日までに振り込み云々という文章があってもおかしくないはずだ。  液晶画面に顔を近づけ、再びホームページを見つめながらスクロールを繰り返す。 (どこかにボロが出ているはずだ……)  何度見ても変わらない画面。目を皿のようにしてやっと見つけることが出来たのは、問い合わせの際には封筒に記載された六桁の番号が必要だという事だけだった。 (あ……。これ、大事かも)  急いでメモを取る自分に、ハッと息を呑む。  次の瞬間、颯真は表示されているブラウザを閉じると、新たに検索を始めた。  それは、いわゆるゲイ専門の出会い系サイト。  近間で、後腐れなくヤらせてくれる相手を探すには、これが一番手っ取り早い。だが、知らない相手との性交にはそれなりのリスクが伴う。  一番警戒すべきことは病気の有無だ。さすがに出会い系掲示板にそこまで書き込むヤツはいない。  もし、初めてのセックスで病気に感染したら、それがトラウマになって人間不信に陥る可能性はある。  それほど、三十二年間という長きに渡り守り続けて来たモノは尊く、デリケートなのだ。  いっそのこと、美弦が言うゲイ風俗に行った方が楽になれるかもしれない。怪しい店でなければ、大概はスタッフの性病検査は定期的に実施している。  それならば感染のリスクは確実に減るが、この歳で未だに童貞と陰口を叩かれ、笑い者にされる事は自身のプライドが許さない。  ハッテン場も、気楽に出入り出来る場所もあれば、完全会員制で落ち着いた雰囲気の店もあり、洗練されたインテリアと大人の駆け引きを上質な酒を飲みながら楽しめる。颯真の理想としては後者ではあるが、会員になるにはそれなりの審査が必要で時間を要する事と、各界のエグゼクティブが出入りするという事は顧客と顔を合わせる可能性がネックになっていた。  出来ることならば、ゲイであることは知られたくない颯真だったが、今はそんな悠長なことを言っている暇はない。三十三歳の誕生日まであと四ヶ月弱……。  その間に童貞を捨てることが出来なければ、男としての全てを捨てて、ただ子を孕むだけのメスとして生きていかなければならなくなる。 「ヤバいぞ……」  顔を覆いながら天井を仰ぐ。グルグルと巡る思考に疲れ、ギュッと目を閉じた。  この期に及んで“初体験”の理想をかなぐり捨てることが出来ない自分が恨めしい。  どうせ抱くなら可愛い男がいい。従順で決して人の事を蔑まない、優しくて思いやりのある子。それに加えて、さりげなく颯真をフォローし、男としてのプライドを傷つけることなく、ただただ快楽を貪り合えるパートナー。  今となっては、そんな理想的な相手が存在するとは考えられない。もしも、すべてに合致する男と出会っていたら、颯真は童貞をとうに喪失していただろう。  エリートとしてのプライドは絶対に捨てられない。理想も追いかけたい。面倒な恋愛感情などは必要ない。  とにかく、童貞を捨てたい!  自身が、どれだけ自分勝手な事を言っているか自覚はある。それでも、これだけは譲れない!  マウスを握りしめたまま、キーボードにうつ伏せて低い唸り声をあげる。  こうして、颯真のたった一人の長い夜は更けていった。

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