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【2】

 翌日、取引先の最寄り駅にある連絡通路で、颯真はスマートフォンを握りしめたまま絶望の淵に立たされていた。いや、正確にはすでに突き落とされていたのかもしれない。  ピクリとも動かないイケメンの姿に、通行人は皆、好奇の目で見つめながら通り過ぎていく。  特に女性は何度も振り返り、中にはスマートフォンで撮影する者さえ現れた。  悩まし気にきつく寄せられた眉、二重と長い睫毛に縁どられた野性的なアンバーの瞳、そしてわずかに開いたままの薄い唇。  それは、恋人に別れ話でも切り出された時のそれに酷似していた。 「――あの。大丈夫ですか?」  下心見え見えの顔を、不安げな仮面で隠した女性が颯真に声をかける。  通りすがりですが、心配で見るに堪えられず声をかけちゃいました!――そういった空気がビシビシと伝わってくる彼女にゆっくりと視線を向ける。  途端に頬を染め、左胸を押さえて息を呑んだ。恋のキューピッドが放った矢が見事に命中してしまったかのようなリアクションに、颯真は額を押さえながら俯いた。 「何でも……ありません。大丈夫です」 「あ、でもっ。顔色が良くないですよ?少し休んだ方が……」 「大丈夫ですっ」  ふっと力なく笑って見せた颯真に、女性はさらに上気した顔を寄せた。 (何のつもりだ……)  いきなり目の前に突き付けられた現実と、ベタつく彼女の存在に不快感が増す。  すっと目を細め、あわよくばホテルに直行しましょう! と張り切る彼女を睨みつける。 『財団法人 日本遺伝子学協会』は間違いなく存在した。ケンカ腰で昨夜メモった連絡先に電話を入れると、実に丁寧すぎる対応で、更に事細かに送付された文書の内容について説明され、ダメ押しのようにメス化へのカウントダウンを告げられたのだ。  こんな状況で、まともに女性の相手が出来るかと問われれば、得意のポーカーフェイスで乗り切れるほど冷静になれるはずがない。  社内では滅多に表に出すことのない颯真のS属性が頭をもたげる。 「この近くに休憩出来る場所があるんですよぉ~」 「――せぇ」 「え?」 「うるせぇって言ってんの。お前、何なの? もしかして、俺に抱かれたいとか思ってんのか? 鏡見て出直してきた方がいいぞ」  偶然見つけたイケメン王子の口から飛び出した強烈な毒に、彼女は度肝を抜かれたのか息を呑んだまま黙り込んだ。  目を見開いたままフリーズする彼女を無視して歩き出した時だった。 「主任っ!」  聞き慣れた声に振り返ると、そこには部下である藤原美弦が小走りで近づいて来るところだった。  颯真から見れば小柄で、二十六歳にしては少し幼さを残す女性的な顔立ちの彼は、営業一課内でも比較的多くの担当企業を受け持つやり手の一人だ。  入社当時から営業部の上司として彼を見て来た颯真は、見かけによらず頑固で一本芯が通った彼に一目置いていた。最初は『本当に使えるのか?』という不安しかなかったが、意外にもこの営業という仕事にやりがいを見出し、めきめきと頭角を現しつつあった。 「藤原……」  颯真と肩を並べて歩き出した彼は、わずかに息を切らして小さく頭を下げた。 「お疲れ様ですっ」 「お疲れ。今日は確か、新規の契約だったな」 「ええ。話好きな社長で、予想外の足止めを食らいました。ところで……主任、あの女性は知り合いじゃないんですか?」  チラッと肩越しに振り返った美弦の腕を力任せに掴むと、颯真は「見るんじゃない」と厳しい声で制した。 「え……?主任と話し込んでいたじゃないですか。ホント、隅に置けないなぁって見てたんですけど」 「勧誘だ」 「は?」 「宗教の勧誘。だから目を合わせるな。お前も誘われるぞ」  パステルピンクのワンピースにベージュのジャケット、長い栗色の髪は丁寧に巻かれ、腕にはエルメスのケリーを掛けている彼女。どう見てもその手の人物には見えない美弦は不思議そうに首を傾けた。  颯真が、どこに行っても女性から声を掛けられるという噂は耳にしていた。  同性である美弦が見てもいい男だと認めざるを得ない、大人の色気と完璧とも言えるビジュアル、そして仕事の才能を兼ね揃えた上司だ。  しかし、今日の彼の横顔はどこか憂いを帯びていた。自信に溢れ、怖いものなど何もないという様子とは少し違うようだ。 「――主任。何かトラブりました?」  美弦の言葉に驚いた颯真は、その動揺を取り繕うように口角を皮肉気に曲げて笑って見せた。 「別に……」 「あの……。こんなこと言ったら怒られるかもしれませんが。あの女性は主任の彼女なんじゃないですか?」 「はぁぁぁぁっ? お前……この俺が、あんなブサイクな女と付き合うと本気で思ってるのか?」 「ちょっ! そんなに大声出したら聞こえるでしょっ」  急に声を上げた颯真の腕を今度は美弦が掴む番だった。通りすぎる人たちが何事かと振り返る。  バツが悪そうに周囲に目を配りながら、美弦は小さく吐息して彼を見上げた。 「言っておくが……。俺のレベルはお前が想像してるものよりもはるかに高いんだからな」 「それで、女性社員の誘いを断っているんですか?」 「まあ……理由は、それだけじゃないがな」  フンと鼻息荒く言い切った颯真は、隣に並ぶ美弦の横顔をチラリと見た。  色が白く細身ではあるが程よく引き締まった体にタイトなデザインのスーツが似合っている。歩くたびに柔らかな栗色の髪が揺れ、ワイシャツの襟元からチラリと見える襟足が何とも艶めかしい。  微かに香るのは爽やかなソープと煙草の匂い。  喫煙室では細い煙草を唇に挟む彼の姿を何度も目にしているが、部下だと分かっていても違った目で見てしまう自分がいたことは否定できない。  颯真の視線に気づいたのか、前を向いて歩いていた美弦がふっと顔を上げた。  薄い唇がふわりと開き、細い腰がわずかに捩じれ、上着のウェスト部分に皺が出来る。 「――どうかしましたか?」 「あ、いや……」  勝気なこげ茶色の瞳が颯真を捉える。  その瞬間、颯真の中に今までとは全く違った感情が生まれた。 (啼かせてみたい……)  禁欲的なスーツの下に隠された白い躰を妖しくくねらせて、潤んだ目で舌を出してキスを強請る美弦の幻影が脳裏を掠めた。  高くも低くもない透明感のある声――。喘ぎながら颯真の名を呼ぶ美弦の姿が目の前の彼と重なり、視界がぐらりと大きく揺れた。  それと同時に、下半身がズクリと疼き、急激に熱が集まり始める。 (ちょ、ちょっと待て! おい……っ)  不自然に膨らみ始めた場所を、彼からの視線を遮るように手に持っていたバッグで前を覆った。 「藤原……」 「はい?」 「俺はもう一ヶ所寄るところがあるから、お前は先に会社に戻れ。今日の報告書、忘れるなよ」  出来るだけ硬質な声音で言ってはみたが、微妙に語尾が震えている。  いきなり兆し始めてしまった下半身から集中力を欠くわけにはいかない。気を抜いたら治まるどころか、暴発しかねない。 「――分かりました。じゃあ、お先に失礼します」 「ああ……」  片手をあげて、颯爽と歩いていく美弦を見送った颯真は、そのまま近くにあったトイレに駆け込んだ。  一番奥にある個室に入り鍵を掛けると、ドアに背を押し付けて天井仰いだ。 (落ち着け……。落ち着け、俺っ!)  何度か深呼吸を繰り返してみるが、スラックスの生地を持ち上げている愚息の勢いはさらに増していく。  さすがに息苦しさを感じて、ベルトを緩め前を寛げると、ぶるんと音がしそうな勢いで長大なペニスが飛び出した。  赤黒く充血し、大きく張ったカリには血管が浮き、先端からは透明な蜜が糸を引いて溢れていた。 「完勃ちかよ……」  常時でも常軌を逸した大きさを誇る颯真のペニスは、久しぶりの刺激的な妄想で一気に膨張し、恐ろしいほどに勃ち上がっていた。  こうなったらもう、深呼吸だけでは治まらない事は所持者である颯真が一番よく分かっている。  約四ヶ月後にはメス化してしまうという現実を突きつけられ、しばらくは自慰も出来ないほど落ち込むだろうと思っていた不安は呆気なく解消された。  イケメンのエリート社員が、駅の連絡通路にあるトイレですることになるとは……。 「はぁ……」  ネクタイを緩めながら腹を括る。大きく零したため息が外に聞こえたのではないかと一瞬動きを止めたが、颯真は便座に腰掛けると、薄青色のドアをじっと見つめたまま、引きちぎったトイレットペーパーを愚息にそっと被せた。  そのまま上下に扱き上げながら目を閉じる。  クチュクチュと水音が聞こえてきたが、今は周囲のことなど構ってはいられない。  瞼の裏に映し出された美弦の横顔に息を荒らげながら、颯真は絶頂への階段を駆けあがっていった。

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