4 / 9
【3】
あの日から颯真は美弦を意識し始めた。
女性には全く反応しない颯真の愚息が、部下である美弦に大いに反応してしまったのだから。
どうせ抱くのなら気心知れた者の方が安心する。多少、勝気なところはあるがヴィジュアル的には何も問題はない。初めての相手にしてはうってつけだ。
しかし、美弦は自身のプライベートを周囲に明かさない。
それに、女性にモテるという話は耳にするが、恋人がいるという事は聞いたことがなかった。
颯真はじわじわと間を縮め、彼に警戒されないように上司権限を駆使し、彼の動向を探った。
帰宅時に彼のマンションまで尾行したり、偶然を装って同じ電車に乗ったりもした。
地位のある男がストーカーまがいの事をしてしまうほど、颯真は追い詰められていた。自室に掲げられたカレンダーには確実に×印が増え、止まることなく時間は過ぎ、月が替わっていった。
そして、あの夜――。
意を決して決行した美弦への告白が、最悪な結果を招いてしまった。
声をかけても完全に無視され、フロアでは目も合わさない。
仕事の打ち合わせで同行しなければならない時などは最悪で、タクシーの中では終始無言のまま、取引先での商談も会話が噛み合わず、先方の担当者に不信感を抱かせてしまった。
このままでは上司部下という関係はもとより、営業一課の連携も崩れかねない。
颯真自身も次期課長候補として名を挙げている身であり、美弦もまた営業一課を背負う大事な人材だったからだ。
悶々とした日々を過ごしながらも、颯真はタイミングを見計らっていた。
このまま膠着状態が長引けば、美弦の颯真に対する信頼度は下がっていくばかりだ。一度失いかけたものは、回復するのにかなりの時間を要する。
ここは颯真が折れる形で、弁解の意味も兼ねて話し合った方がいいだろうと思っていた。
そう言う時に限って業務は多忙を極め、美弦とのすれ違うことが多くなっていった。
体力的にも、精神的にも余裕がなくなり始めていた颯真は、出先から戻ってくるなり、何度もため息をつきながらエントランスを横切り、おぼつかない足取りでエレベーターホールへと向かっていた。
「岩崎くんっ!」
自身が声を掛けられたことには気づいたが、ぼんやりしていたために反応が少し遅れた。
「ちょっと、岩崎くん!」
壁と床に張られた人造大理石が快活な声を反射し、嫌でも颯真の耳に飛び込んでくる。
おもむろに声のする方を振り返ると、そこには紺色のスーツに身を包んだスレンダーな女性がいた。
以前の颯真なら、記憶力をフル回転させてその人物の氏名を割り出し、相手によって使い分ける営業用の笑顔で対応出来た。だが、ぼんやりと向けた視線の先の女性が思い出せない。
自身を『岩崎くん』と呼んでいることから、関係の中では親しい方に分類されるはずだ。
(誰だっけ……)
とりあえず片手をあげて呼びかけに応えると、彼女はヒールの音を鳴らしながら近づいてきた。
「――どちら様でしたっけ? って顔ね」
「いや……」
「元カノの顔、忘れるとか……。酷くない?」
そう言われてマジマジと見つめ返す。そこには長いストレートの髪をきちんと纏め上げた懐かしい顔があった。
颯真が入社したての頃に――後にも先にも一度だけではあるが――彼女がいた時期があった。それが、目の前にいる横山 明莉 だ。
当時は周囲の勢いに呑まれ、あれよあれよという間に付き合う事になってしまったが、今となっては初めて自分がゲイであることを明かした唯一の女性になってしまった。
そんな彼女は数年のキャリアを積んだ後で自ら起業し、今ではやり手の女社長としてビジネス誌を騒がせている。
「明莉……か?」
「お久しぶり。元気……ではなさそうね。その顔、何かあった?」
「別に」
「営業一課の主任様がそんな顔してたら部下にナメられるわよ?」
昔からそうだ。彼女はなぜか勘がいい。
だから会社を辞める時も、起業する時も、いつも先を見据えていた。
そう――颯真がゲイであると気付いた時も、彼女の鋭い観察眼が働いたのだ。
明莉は颯真の肩に手をかけて、背伸びをしながら耳元に顔を寄せると躊躇なく問うた。
「彼氏、出来た?」
「そんなもの、作っている暇はない」
「あら……。あなたの事だから可愛い男の子と一緒に暮らしているのかと思ったんだけど。それに、凄くモテるって噂で聞いたから、女性に転向したのかと……」
顎に手を添えて小首を傾げる彼女は、無邪気な笑顔は年を重ねてもあの頃と変わらない。
颯真はフンと鼻であしらいながら、吐き捨てるように言った。
「お前が一番よく分かってるだろ? あれから誰とも付き合ってないよ。男も女もな……」
「ええっ! 勿体ないっ。じゃあ、私とヨリ戻すってどう?」
「あり得んな」
「相変わらず女性には反応しないのね……。宝の持ち腐れ」
「うるさい。――で、お前は何しに来たんだよっ」
「あなたの部下になるのかしら……。藤原くんと打ち合わせしてたのよ」
「藤原と?」
彼女の口から出た予想外の名前に、颯真は心臓が大きく跳ねた。
「あなたの会社と取引するつもりはなかったんだけど、彼に口説き落とされたの……。可愛いわね、あの子。今度は私が口説き落とそうかしら」
ウフッと楽しそうに笑った明莉を、颯真は無意識に睨みつけていた。
「やめとけ」
怒気を孕んだ颯真の声に、明莉の笑みが消えた。
明莉も颯真と同様、かなりモテると聞いたことがある。愛らしさを含んだ美人系で仕事も出来る。それに女性にしては背も高く、一時期は読者モデルをしていた時もあった。引く手数多の彼女が真剣に口説くとなれば、落ちない男はいない。まして、彼女よりも年下である美弦が勢いに呑まれる可能性は大いにある。
自身が狙っている獲物を元カノに横取りされる事ほど最悪な事はない。
颯真はそんな事態になることを意地でも回避する必要があった。
「――もしかして、岩崎くんが狙ってるとか」
「上司が部下を守って何が悪い。アイツはお前には釣り合わない」
「それは私が決める事でしょ? あ……。もしかして、彼もゲイ?」
「さあな。もし、アイツもゲイだったら、お前は無意識にゲイを好きになる性癖の持ち主なんだろう」
「なに、それ……。もう、ゲイは懲り懲り。セックスしたくても勃たないんじゃ話にならないわ」
「じゃあ、他を探せ。体の相性が合う男の方がいいだろ?」
「そうね。あ、こんな時間! じゃあ、またねっ。今度ゆっくり飲みに行きましょう」
ヒラヒラと右手を振りながらエントランスへと歩いていく彼女を見送って、颯真は自分がどれほど肩に力が入っていたのかと思うほど脱力した。息を吐きながらがっくりと肩を落とす。
(どこまで勘がいいんだよ……)
今まで何の音沙汰もなく、久しぶりに再会したと思えば美弦の事をネタに弄る。
まるで颯真の心を見透かすような明莉の言動で、更に憂鬱になったことは言うまでもない。
魂が抜けかけた屍のような体を引き摺って、上階行きのエレベーターの到着を待った。
しばらくして鏡面の扉がゆっくりと開くと、そこに立っていたのは美弦だった。
彼の他には誰も乗っておらず、同じ空間に足を踏み入れるのを躊躇っていると、彼は目を合わすことなく言った。
「――乗りますか?」
感情のない冷たい響きに息が出来なくなる。
恐る恐る足を踏み出しエレベーターに乗り込むと、行き先は言わずもがな美弦と同じだった。
沈黙が支配する箱の中で、颯真は呼吸さえも控えめに隅の方で居心地悪く佇んでいた。
自分よりも背の低い美弦の背中がやけに大きく、そして遠く見えて、あの夜の事を猛省した。
「――横山社長とはお知り合いなんですか?」
不意に問われ「へ?」と素っ頓狂な声が出た。
訝し気に振り返った美弦は、颯真に向き直るとため息交じりにこう続けた。
「ホント、お盛んですよね。あれほど女性に誘われるのに、どうして俺なんですかね……」
皮肉にも取れる彼の言葉に苦笑いを浮かべながら、颯真は俯いたまま前髪をかき上げて応えた。
「アイツは――元カノだ。しばらく会ってもいなかったから顔も咄嗟に思い出せなかった」
「初耳。過去にあれほどの美人と付き合っていながら、ゲイをカムアウトするなんて」
「大人の事情だ」
美弦が身じろぐたびにソープの香りがふわりと漂う。まるで、つい先程までシャワーを浴びていたかのような新鮮な香りに、はっと息を呑んで彼を見つめた。
「――お前、アイツと寝たんじゃないだろうなっ」
「何を言ってるんですか……。主任と一緒にしないでください。俺はそんな節操ナシじゃありませんよ」
呆れながら背を向けた美弦は、やけにゆっくりと上昇するエレベーターの表示を見上げながら小さく吐息した。
今の颯真は悪い事しか考えられない。美弦と明莉の関係を疑ったのも、抱え込んでいるモノが見せた妄想なのだ。
美弦の襟足を見るともなく見つめる。こんな精神状態では勃つものも勃たない。それはそれで、今のこの状況では救われていると思った。
彼の肩がゆっくりと上下し、大きく息を吸い込んだことを知る。
そして――。美弦は颯真の方を振り返る事もせずに、少し掠れた声で話し始めた。
「――俺に何か言いたいんでしょ? いつも何か言いたそうな顔で見てるから、こっちもやりづらいんですよ。主任が突然あんなこと言い出すのには何か理由があるんだって……。でも、もう一度ハッキリ言っておきます。俺はあなたに抱かれる気はありませんから」
決定打を突き付けられたように、颯真は壁に背を凭せ掛けた。
そもそも、実に自分勝手な理由で、しかも手近なところで見つけた部下を抱こうとした自分が間違っていたのだ。事情を話したところで、「いいですよ」と二つ返事で応えてくれる者などいるはずがない。
冷静になった今、それが大きな間違いであったことに気付く。
「あの夜のことは謝る。すまなかった……」
意外にもすんなりと口から出た謝罪の言葉に、颯真も、それを聞いていた美弦も驚いた。
ポンッという到着を知らせる小気味よい音と同時に扉が開く。美弦はゆっくりと振り返り、それっきり黙ってしまった颯真を見つめた。
そこには鬱々とした表情の彼がぼんやりと天井を見上げたまま立ちつくしていた。エレベーターが到着したことも気付かない様子で、動くこともなく、ただただ一点だけを見据えていた。
覇気のない颯真を見かねた美弦は、咄嗟に彼の腕を掴みエレベーターの外に連れ出した。
足がもつれ、前のめりになった彼の後ろで扉が閉まっていく。
「主任っ!」
美弦の声でハッと我に返ったように目を大きく見開く。
「アレ……。俺、何してた?」
「大丈夫ですか? まだ仕事残ってるんですから、しっかりしてくださいね」
「あ、あぁ……。そうだった」
心ここにあらずというような空返事で美弦の脇をすり抜けようとした颯真だったが、しっかりと美弦に腕を掴まれているためにそれ以上前に進めない。
その力は二の腕に爪が食い込むほど強く、わずかな痛みを伴っていた。
「藤原……?」
美弦を見た颯真の目には、野性味のある強い光は宿ってはいなかった。
さっき放った言葉が原因でこうなったとは考えにくかったが、ここ数日の颯真を見ていた美弦は、彼の言動に対して不安しか抱けなかった。
課長候補に名を挙げているほどの彼が仕事に集中していない事は、側で彼を見て来た者ならば誰でも分かる。
口には決して出さないが、入社してから今までずっと憧れの存在であった颯真が、このまま消えてしまいそうな気がして恐怖を覚えた。その引き金が自分だと考えると、やりきれない気持ちになる。
何でも完璧にこなす完全無欠な男がここまで自失する理由とは……。
美弦は掴んでいた手をそっと離し、これ以上見ていられないというように俯いた。
「何があったんですか……」
颯真は力なく笑って、美弦に背を向けた。
「お前にはもう関係ないことだ。勝手な言い草だが全て忘れてくれ……」
「俺の……せいですか?」
一呼吸おいて、颯真はゆっくりと首を横に振った。
「もう自分で解決するしかないんだよ。お前に頼ろうとした俺がバカだった」
「解決……出来なかったらどうするつもりですか?」
「あー。会社、辞めるかもな……。ここにはいられなくなると思うし」
仕事に誇りとプライドを持ってきた彼の口から出た言葉とは到底信じられなかった。
目を細めて遠くを見つめる颯真の横顔に、美弦は今まで嫌悪しか感じていなかった彼への感情が真逆なものに変わっていることに気付いた。。
自信過剰で、オレ様で、無駄にプライドが高くて……。それでいて、ムカつくほど何でも完璧にこなして、男にも女にもモテて……。そんな男が見せた弱さに絆されたと言われても今は仕方がない。
正直なところ、その通りなのだから。
美弦は歩き出した颯真の背中をただ見つめたまま、高鳴る胸の鼓動を押さえることが出来なかった。
ともだちにシェアしよう!