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【4】
あれから一ヶ月、美弦は仕事でミスばかりを連発する颯真のフォローに徹した。
同僚たちは、そんな上司を訝し気な目で見る事しかしなかったから。
中には仕事の重圧で精神に異常を来したのではという憶測まで飛び交い、信頼していた部下たちに一線を引かれてしまった颯真が気が気ではなかった。
そんなある日、出社した美弦はフロア内の異常な雰囲気にすぐに気付いた。
窓際のデスクに座り、書類を眺めている颯真に対し、フロアにいた男性社員全員の目が向けられていたからだ。
「おはようございます……」
周囲を見渡しながら遠慮がちに自分のデスクに向かいかけて、美弦は眉を顰めて鼻と口を掌で覆った。
誰かがつけている香水の匂いだろうか。強烈な甘みのある花の香りが鼻腔を支配した。
他の者よりも少しだけ嗅覚が優れていると自負する美弦は、他人が感じているよりも数倍濃度の香りに眩暈を覚えた。
男ばかりの職場で、まして女性が使用するような香水をつけて来る者は今までいなかった。鼻の奥がジンと痺れるような甘く官能的な匂いに腰の奥がウズウズとし始める。
「なんだ、これ……」
その匂いに気付いているのは自身だけなのかと、もう一度フロアを見渡すと、デスクの下で下半身をしきりに撫でている同僚の姿が目に入った。
(媚薬の匂い……?)
美弦は以前、その匂いを嗅いだことがあった。一夜を共にした相手が使っていたことを思い出し、嫌悪感に綺麗な顔が歪む。
その匂いに反応して、フロアにいる男性社員が発情しかけている状況は誰が見ても異常で、早くその根源を絶たなければ仕事どころか、想像を絶する事態に発展する。
鼻を押さえたまま、細く息を吐き出しながらその匂いが強くなる方へと足を向ける。
そして、足が止まった場所は颯真のデスクの前だった。
「主任……」
「あぁ、藤原か……。おはよう」
「おはよう……じゃないですよっ。ちょっと来てください!」
「えっ?」
美弦は颯真の腕を掴むなり、席を立たせて引き摺るようにして廊下に出ると、出入り口のドアを勢いよく閉めた。
「なんだよ、いきなり……」
「主任、香水変えました?」
「いや……」
鼻を押さえたままの声で問う美弦を不審げに見下ろしながら、颯真は覇気のない表情で首を傾けた。
「どうしたんだ? 何か匂うか?」
スンと鼻を鳴らしながら自身のジャケットの袖の匂いを嗅いだ颯真は、不思議そうな顔で颯真を見つめた。
別段、いつもと変わらない。愛用のムスクも今日は控えめにして来たつもりだ。
しかし、颯真が身じろぐたびに一歩、また一歩と遠ざかっていく美弦に苛立ちを隠せなくなった。
「お前なぁ、かなり失礼なことしてるの分かってるのか? 仕事に戻るぞっ」
「ちょっと待って! 主任、今日は俺の外回りに付き合ってください」
「は? 俺は暇じゃないんだぞ」
「知ってますけど! 今日だけ……」
上着の裾を掴んで必死に訴える美弦に、颯真も仕方なく頷くしか出来なかった。
ここのところ、美弦が自分の犯したミスのフォローに回ってくれている事は薄々感じていた。無理やりに抱こうとして機嫌を損ねた彼がどういう風の吹き回しなのだろう。
それに、久しぶりに彼が甘えてきたことも正直なところ嬉しい。仕事を覚え、独り立ちしてしまい、自然と離れていった彼が『精神を病んでいる主任』を頼ってくれることが颯真にとって安心材料となった。
颯真は、あの事をまだ諦めてはいなかった。
三十三歳の誕生日までまだ数週間ある。可能性があるうちは全てを捨てたくなかった。
そして、薄っすらと積もる初冬の雪のように、日に日に募っていく美弦への想いもまた、彼の中で十分な質量を占めていた。
勝気な瞳を細めて笑う彼の顔が夢にまで出て来るようになっていれば、もう素直に認めるしかないだろう。
だが、時が満ちて自身がメス化した時、彼は今のままでいてくれるだろうか。
ノンケである彼が、メスになってしまった自身を抱く確率は極めて低い。
そうなって傷つくよりも、早いうちにこの想いを消してしまった方が苦しみは少ないのかもしれない。
颯真は美弦の顔をじっと見つめながら、わずかに目を伏せた。
今まで、誰かの事をこれほど考えたことがあっただろうか。明莉の時も、仕事にかこつけて真剣に接していなかった。
最近、やけに感傷的になってしまうのは、確実にメス化が近づいている証拠だ。
自身が童貞であるばっかりに、美弦をこんな形で巻き込んでしまった事を後悔しつつ、再びフロアに戻ろうとした時、美弦の腕が颯真の腰に回された。
「ちょ、ちょっと! 主任はここから動かないでください! 荷物なら、俺が取ってきますからっ」
「どういうことだ?」
「今は俺の言う通りにしてくださいっ」
するりと解けた美弦の腕の温もりが急激に冷めていく。
すぐそばにいながらも、果てしない距離を感じる。フロアに走っていく彼の背中からすっと視線を逸らして、小さくため息をついた。
(愛することは罪なのか……)
その想いに気付いてもなお、エゴのために美弦を壊したいという下心が凌駕する。
たとえ彼と繋がったところで、その先はないと分かっているのに。
無理やり組み伏せてレイプ同然に童貞を捨て、一生償えない罪を背負って生きるか……。メス化して「抱いてくれ」と懇願するか……。颯真はどちらが本当の正解なのか分からないまま、闇の中を彷徨い続けていた。
* * * * *
長い一日が終わり、会社に直帰する旨を伝えて颯真は美弦と別れた。
今朝の美弦といい、訪問した企業といい、颯真に対する反応がおかしく感じられた。
先方の担当者はやたらと颯真にボディタッチしてきたし、いつも彼の顔を見るたびに不機嫌になっていた企業の部長でさえも上機嫌で、なぜか尻を撫でまわしていた。
不快に思いながらも、こういう日もあるものだと言い聞かせていた。しかし、すぐそばでムスッとした顔で唇を噛んでいる美弦の真意だけは理解出来なかった。
夕暮れの風に吹かれながら、ふと久しぶりにSK町に行こうと思い立つ。
国内有数の歓楽街であるSK町。その一画にあるエリアはゲイの解放区だ。
二十代の頃は頻繁に出入りしていたエリアではあるが、今となっては足が遠のいてしまっていた。
あわよくば、自身の童貞喪失に協力してくれる者が現れるかもしれない。颯真はネクタイを緩めながらすでに輝き始めているネオンの下を潜り抜けた。
通りに面した歩道では、すでに人待ち顔の男性がウロウロとしている。
良く通っていた店はまだ健在ではあると聞いていたが、今日はそこまで踏み込む勇気はなかった。
甲高い声に振り返れば、派手なワンピースを着たオネエが客引きに専念している。ガチムチ男の腕にしがみ付いて甘えた声で誘う。
それを横目で捉えながら、颯真は先程から感じる視線に困惑していた。
不躾で、節操のない絡みつくような視線は、通りのどこかしこから感じる。
周囲を見回してみるが皆それぞれで、自分の思い過ごしかと吐息する。
視線を落としたまま歩く颯真の目の前に何か大きなものが現れた。看板かと思い避けようとするが、なぜか颯真と同じ方に移動する。
「ん?」
不思議に思い、やっと顔を上げた彼の前に立っていたのはジーンズにシャツというラフな格好の二人組の男だった。
「すみません……」
ここで揉め事は起こしたくないと素直に謝る颯真の腕をいきなり掴んできた。
「おい。どこ行くんだよ?」
唸るような低い声で動きを制され、颯真は息を呑んだ。
「え?」
「いい匂いプンプンさせて……。そんなに抱かれたいんなら、俺たちが相手してやるよ」
「は?」
「天国見せてやるぜ……。エリート面した仔猫ちゃんっ」
細身の男が颯真の首筋に顔を寄せて下卑た笑いを浮かべる。
スルリと撫でるようにかかる息が不快で仕方がない。
「コイツ、例の遺伝子変異ってやつじゃないのか? もしかして……童貞ちゃんか?」
「マジかー! そいつはいいっ! たっぷり可愛がってやるよ」
最初は耳に入っても来なかった彼らの会話が次第に鮮明になり、颯真は身の危険に晒されている事を知った。
「はぁ……。イイ匂い!」
今朝、美弦も匂いの事を気にしていた。何度も確認してはみたが、特別気になるものではなかったはずだ。
それなのに、彼らもまた颯真から発せられる匂いに惹かれているようにも見える。
彼らは颯真を抱きたくて仕方がないらしい。
「――冗談じゃない」
「なにっ?」
「どうして俺がお前らに抱かれなきゃいけない? 俺はバリタチだぞ?」
一瞬の沈黙の後で、彼ら二人は突然腹を抱えて笑い始めた。
意味が分からずに呆然とする颯真に、男の一人が彼の顎を掴んでクイッと上向かせた。
「どこをどう見てもネコだろ? 強がるのもいい加減にしろ」
「な……なにっ!」
「見た目はそうかもしれないが、ここにいる奴らが見れば誰でも分かるんだよ。引き締まったケツ振りながら、今夜の相手を探すメスネコになっ。ほら……ここが疼いてたまんないんだろ?」
男の手がスラックスの布越しに尻の割れ目をスルリと撫で、指をグイッと力任せに突き込んでくる。
「やめろっ」
颯真が小さく叫んだ時、先程客引きに勤しんでいた派手なオネエが騒ぎに気付いて駆け寄ってきた。
歳は颯真よりも少し上のように見える彼は、男たちの腕を掴み上げると低い声で言った。
「あんたたち、素人捕まえて何やってるのよ!」
「うるせぇ! お前は引っ込んでろっ」
「ちょっと、私にそんな事言って許されると思ってんの? 出るとこ出たって構わないわよっ」
「なんだ、このブス!」
「今、ブスって言ったわね! 絶対に許さないからっ。――ちょっと、あなた! あなたもあなたよっ。そんな匂い振りまいてここを歩くなんて正気じゃないわっ! ゴホッ! あぁ……ダメ! 頭痛くなって来た……」
長い睫毛を震わせて、額を押さえた彼がよろめいた時、茫然と立ち尽くしていた颯真の後ろで鋭い声が響いた。
「――おいっ! クズ野郎、それ……俺の獲物だから」
どこかで聞き覚えのある声に颯真が振り返ると、そこにはネクタイを外しワイシャツの襟を大きく開いた美弦が立っていた。
「藤原……。なんで、ここに」
「まさかと思って引き返して正解でしたよ、主任……」
大股で歩み寄った美弦は、颯真の腰を引きよせると意地悪気に笑って見せた。
「あれ……。もしかして、ミツルちゃん?」
男に掴み掛かっていたオネエの動きが止まる。美弦は彼を見上げると、すっと目を細めて唇を舐めた。
「お久しぶり。アキさん……」
「いや~ん! ホントに、ミツルちゃんなのねっ! 元気だった~」
アキと呼ばれたオネエは乱暴に男の体を突き放すと、美弦の肩に手をかけてスリスリと頬を寄せた。
「ねぇ、彼はミツルちゃんの彼氏? いい男じゃないっ」
「アキさん、その話はまたあとでゆっくりしよ? 今はこいつらを何とかしなきゃ」
「ああ、そうね! 最近はタチの悪いやつが増えてね……」
素早く体勢を整えたアキは、男たちに向き直ると腰に手を当てて真剣な表情で言った。
「あんたたち! この町でミツルちゃんの彼氏に手を出したらどうなるか分かってるの?」
「はぁ? ミツルってコイツか? ついでだ……こいつもヤっちまおうぜ!」
「バカおっしゃい! ここで彼のことを知らない人はいないの。痛い目を見たくなければさっさとお帰りよっ」
「なんだとっ! こんなガキに何が出来るって言うんだよっ!」
イライラも限界に達した男がアキに殴りかかろうとした――が、その手首を彼よりも素早い動きで封じたのは黒いスーツに身を包んだ強面の男だった。彼の後ろには数人、見るからにソッチ系な人たちが睨みをきかせていた。
眉間に深い皺を刻み、上から見下ろされた男は大きく目を見開いたまま息を呑んだ。
「アキさんに手ぇ上げるとはいい度胸じゃねえか」
「は?」
驚きに素っ頓狂な声を上げた男をさらに威圧するように顔を近づけた黒服の男は、逃げ出そうとするもう一人の男を取り押さえるように無言のまま顎をしゃくった。
「うわぁぁぁ!」
声をあげて暴れる男は怖い男たちに呆気なく取り押さえられ、その場にへにゃへにゃと座り込んだ。
その彼を冷めた目で見下ろして、美弦は吐き捨てるように言った。
「この街にはルールがある。新参者のアンタたちは知らないだろうけど、ここを歩くんだったら知っておいた方が身のためだよ」
呆気にとられたまま立ちつくしていた颯真に「ね?」と笑いかけた美弦は、強面の男に軽くウィンクして見せた。それに応えるように頭を下げた彼は、男たちを連れ去っていった。
それを見送っていたアキは、何かを思い出したかのように慌ててミツルに駆け寄ると、颯真から彼を引き離し何やら耳打ちをした。
「――なるほどね。ありがとう、アキさん」
「これからどうするかはミツルちゃんが決めることだから……」
不安げに細い眉をハの字に曲げたアキからは、先程の勢いは感じられない。しかし、そっと彼の手を握った美弦の目には強い意志が感じられた。
そんな二人を見ていた颯真は、眩しそうに目を細めた。
(やっぱり……アイツしかいない)
グッと握った拳を込める。すべてを話すべき相手は意外にもすぐ側にいた。
見えないところで颯真をフォローし、今もこうやって助けてくれた男……。
彼にすべてを委ねようと決意した。これで断られたら、覚悟を決めよう……と。
そう思い立った颯真の行動は早かった。闇の帳が下り始めたネオン街の真ん中で、何気なく振り返った美弦の手を掴むと、側にいたアキに頭を下げて足早に歩き出した。
「主任? ちょっと、待って!」
「いいや。もう、待ったナシだ!」
目指すは駅前のシティホテル。もう颯真を止められる者はどこにもいない。
夜の風が美弦の髪をそよがせ、ソープの香りを漂わせる。
彼の手の温もり、気配、息遣いを近くで感じながら、颯真は最後の賭けに出た。
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