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【8】

 静寂が支配する夜の営業一課のフロアで、キーボードを叩く音が響いていた。  美弦は、最後のエンターキーを力強く押すと、大きく伸びをして声を上げた。 「終わったぁぁぁ!」  明日までに用意しなければならない資料。ほぼ完成していたにもかかわらず、大幅変更の指示を出したのは主任である颯真だった。  苛立ちを隠せないまま、ひたすら机に向かいキーボードを叩きながら手元のデータを睨みつけていた。  彼が出した指示に、理不尽な修正は何一つなかった。  すべてが完璧――そこが美弦にとっていけ好かないところだ。  作成したデータをメモリに保存し、明日の朝プリントアウトすれば会議には十分に間に合う。  ホッと息を吐いてPCの電源を落とした時、何の前触れもなくフロアの照明が消えた。 「え……。停電? マジかよ……」  しかし、コピー機やルーターの電源ランプは灯ったままで、電話も通常に作動している。  わずかな光を頼りに、デスクの上を片付けていると、背後に気配を感じて息を呑んだ。  大きな手が美弦の臀部を撫でまわしている。  深夜のオフィスで不法侵入した上に痴漢をはたらくとは、何とも思い切った奴だと呆れ気味に吐息した。  犯人はもう、分かっている。  気付かれないように犯行を犯すなら、香水を変えることを教えた方が良さそうだ。 「――主任。何をしているんですか」  冷めた口調でそう言い放つと、尻たぶを掴んだままの手が動きを止めた。 「こんな時間に部下に痴漢行為をはたらくとか……非常識にもほどがありますよね」  美弦に無茶ブリして「出先から直帰する」告げたものの、やはり彼一人で残業させるのが心苦しくなり、引き返してきた颯真は、肉付きの薄い尻たぶに指を食い込ませたまま、耳元に顔を寄せた。 「クスっ……。どこかで聞いたセリフだな」 「帰ったんじゃないんですか? 俺に修正押し付けて……」 「酷い言い草だな。お前が心配で戻ってきたというのに……」  美弦は振り返ることもせずに通勤用のバッグにファイルを入れた。  これ以上、彼に反撃しても無駄だという事は分かっている。正論を並べ立てて美弦の言い分を呆気なく論破すしてしまうからだ。  颯真の手がスラックス越しに割れ目をなぞり始めると、さすがの美弦も嫌悪感を露わにして振り返った。 「いい加減に……っ」  ガタンッ!  不意に視界が大きく揺れる。気が付けば美弦はデスクの上に押し倒されていた。  すぐ近くには端正な颯真の顔があり、ハッと息を呑む。 「――藤原、ヤらせてくれ」  ここが神聖な職場であることは分かっている。しかし、美弦の色香に当てられてしまった今、颯真の理性はギリギリのところで押しとどまっていた。 「は?」  美弦は、ネクタイを掴み、今にも解こうとする彼の手を咄嗟に掴んだ。  ここのところ、ほぼ毎晩と言っていいほど体を重ねている。それなのに、なぜ社内でこんな暴挙に出たのか意味が分からなかった。  童貞を捨てた直後はセックスが楽しくて仕方がないというが、颯真も同じ了見なのだろうか。 「何、考えてるんですか? ここは会社ですよっ」  あくまで上司と部下の関係を貫こうと努める美弦の唇にそっと人差し指を押し当てる。  薄闇の中、勝気な目で睨みつける美弦を上から見下ろして、ニヤリと口角をあげる。 「しーっ。警備員が来るだろ」 「見つかってレイプの現行犯で捕まればいい……。このセクハラ上司! やっぱり最低なクズだな」 「そのクズが大好きで堪らない部下がここにいる……」 「俺がいつ、好きだって言いました? セックスを覚えた今、ヤりたくて仕方ないのは分かりますが、いい加減にしてくださいっ」  美弦が力任せに彼を押し退けようと肩に手をかけた瞬間、颯真の冷たい唇がゆっくりと重なった。  甘いムスクと煙草の匂いがふわりと広がり、美弦は諦めたように目を閉じた。  美弦は颯真のキスに弱い。そうなってしまったのも、暇さえあればキスを仕掛けてくる彼のせいだった。 「いい子だ……。帰るまで我慢出来そうにない」  柔らかな髪をかき上げて、小ぶりな耳朶を甘噛みしながら囁く。嫌だと言いながらも、少しずつ息が上がっていくのが分かる。  会社ではツンを貫く彼が堕ちるのは時間の問題だ。 「どんだけ精力旺盛なんですか、あなたは……。そんなにヤりたいのなら、あの時みたいに土下座して頼めばいい」 ダメだと分かっていても、恋人である颯真の声に抗うことが出来ない。ただ耳朶を噛まれているだけで、体の奥がジン……と痺れ始めていた。 「やったら……ヤらせてくれるのか?」 甘く低い声で、意地悪な笑みを浮かべながら啄まれる唇が心地いい。  解かれたネクタイがスルリと音もなくデスクを滑り落ちる。ワイシャツのボタンを外され首筋にキスが降り注いだ。  肌を触れ合わせるだけで熱を孕み、快感を呼び覚ましていく。美弦は恐る恐る颯真の首に腕を絡ませると、挑むように目を細めた。 「――ここで、する気?」 「ダメか?」  縋るような目で見つめてくる颯真に美弦は弱い。彼の弱い部分を見て来ただけに庇護欲を掻き立てられる。  たとえ上司でも、スーツを脱いだら恋人なのだ。 「颯真がしたい……なら」 「決まりだな……っ」  上目遣いで仕方なくという表情で応えた美弦が可愛くて仕方がない。何度、体を繋げても飽くことがないのは、颯真のVIRGINITYを捧げた相手だから。  重なる唇。絡まる舌。シャツ越しに弄ばれる胸、やんわりと中心を掴まれれば、もう理性など微塵もない。  薄明りの中で重なる二つの影は甘い吐息を散らかしながら、深く深く交わっていく。  互いの想いを絡ませて、絶対に解けない絆を耳元で何度も囁く。 「愛して……」 「もちろん。一生、愛してやる……」  三十二歳童貞、最低・最悪なセクハラエリート上司。  VIRGINITYを捨てた時、今まで知らなかった真実が見えた。  男にはプライドは必要不可欠。でも――それを誰かのために捨ててみたら? 全てを奪われても、それが愛に変わり、命を懸けて守りたいと思うから。  生意気な部下。ムカついて抗っても決して勝つことの出来ない上司(てき)は、今夜も心と体を蕩かせてくれる。  愛を知らなかったビッチは、知らずのうちに彼の腕の中に。  後悔しても、もう遅い。  VIRGINITYを奪っても、それ以上のものを奪われてしまったから。    見つめ合う瞳に強い光と愛を湛えて、唇を啄みながら笑い合う  すべては運命の名のもとに――First of Emotion!

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