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第14話 月下の出会い

 王都陥落から三日、街に変った様子はない。街並みは美しいまま、起こった惨事を感じさせるものは何一つない。  だがやはり夜は敬遠されるのだろうか、人の姿はない。かつては遅くとも酒場に明かりが灯り、広場では大道芸人が磨き上げた芸を披露していたが。  詩人は中央にある噴水の縁に腰を下ろした。その表情は憂いている。長い水色の髪を下ろした彼は、物悲しくジェードの瞳を巡らせ、手にした竪琴を爪弾く。 『愛は憎悪の裏表  愛した人よ、何故私の心を踏みつけた?  海より深い愛情は、海より深い憎しみに  憐れ二国は赤く染まり、二度と交わる事なかれ』  詩人の声はあまりに透明でよく通り、夜闇に消えていく。誰もこの詩を聞く者はない。これは、嫌われる詩。あまりに悲しく、あまりに生々しい。  二国はかつて、一度だけ一つとなった。大国だったタニスの女王と、ルルエの王は愛し合って結婚し、国を一つとした。  だが、それは裏切りによって終わりを迎える。それよりずっと、二国は憎み合ったままだ。  詩人に扮したユリエルには、この話の心は分からない。  愛などと不確かなものを、彼は信じていない。そんなものの為に国を分かち、戦を起こした女王の心が分からない。  ポロリポロリと、寂しげに竪琴が鳴る。だがふと、夜の闇から一つの拍手が贈られた。  驚いたのはユリエルの方だった。思わず立ち上がり、辺りを見回す。今まで他の気配などまったく感じていなかった。  音は丁度背後、噴水の水を挟んだ先からだった。  それは、まるで夜のような青年だった。簡素な服装に剣を一振り下げる姿は、どうやら旅人のようだ。短い黒髪は艶やかで、端正な顔立ちを縁取っている。瞳はまるで星のように明るい金色。優しく穏やかな視線が、ユリエルへと向けられていた。 「すまない、驚かせてしまったか」 「…いいえ」  彼はゆっくりと歩み寄り、申し訳なさそうな顔をする。物腰や所作が優雅だ。きっと、それなりの家の出なのだろう。  旅人は、ある意味で世捨て人のような存在だ。僅かな路銀で旅をし、世界中を回る。その先々で小さな仕事をしながら、起こる出来事を記録してゆくのだ。遺跡を巡り、歴史を紐解く学者のような存在。  そして詩人もまた、同じような存在だ。歴史を伝え歩く世捨て人。路銀を持たず過去を捨て、縁を絶って旅をする。そして、歴史や神話を人々に語り歩くのだ。  双方共に国境の審査が甘く、二国を行き来できる存在。それは、世界と縁を切った者達だから。 「美しい歌声と音色に、おもわず聞き惚れてしまった。驚かすつもりはなかったのだが、拍手を贈らずにはいられなかった」 「そのように褒められても、何も出はしませんよ。私は詩人、持たぬ者です」 「あぁ、知っている。俺も君に贈るのは、拍手と賛辞しか持ち合わせてはいない。俺も旅人だ」  双方そのように言って、その後は互いに破顔した。自然と隣り合って噴水の縁に腰を下ろす。彼の金色の瞳が、とても柔らかくユリエルを見つめる。 「そういえば、名乗っていなかった。俺はエトワールと言う。君の名を聞かせてはもらえないか?」 「リューヌと申します」 「エトワールにリューヌか。実に相性のいい名だな」  楽しそうにエトワールが笑う。それに、ユリエルも頷いて笑った。 「それにしても、物悲しい詩だ。その詩は、あまり聞かないな」 「物悲しいが故に、語られないのです。二つの国が憎み合うようになった始まりの詩など、誰も好みはしません。故に、伝える者が少ないのです」  詩人と言えど民の好みを優先する。明るい詩、英雄譚、美しい姫の話は好んでされるが、こうした悲しい歴史を伝える詩は人気がない。  だが、今この街においてこれほど相応しい詩もない。遥か昔の憎しみが、未だに二国を呪っている。今も、まさに。 「リューヌ、君は何故この街に?」  エトワールは疑問そうに問いかける。それに、ユリエルは曖昧に笑った。 「私はこの街の出身なのです。世を捨て、過去を絶った私ですが、不穏な話を耳にして居ても立っても居られず、こうして来てしまったのです」  半分は本当だ。街の様子が気になって、直接見に来た。変装をし、単騎馬を走らせて。  幸い聖ローレンス砦から王都までは馬で一日。ローランに乗って、更に早く到着できた。  エトワールは、とても気遣わしい表情をする。金の瞳が悲しげに伏せられるのは、何よりも彼の優しさを映しているようで好ましかった。 「辛い事だ。この街に縁者はまだいるのか?」 「いいえ、おりません。私は天涯孤独です」  いとも簡単に嘘をついて、ユリエルは苦笑する。そして、改めてエトワールを見た。 「貴方は、何故ここへ?」 「たまたまこの近くを旅していて、悲報を聞いた。旅人は大きな歴史の動きを追う。それが仕事だろ?」 「そうですね」  歴史を書き残す事が旅人の定め。崇高にして不可侵の存在。歴史や神話を伝える彼らは誰であっても意のままにできない。それはいつの世も、二国共通の事柄だ。 「君が争いに巻き込まれず、良かった」 「お互いに」  そう言って、二人は穏やかに笑い合った。  それはとても不思議な感覚だった。尖った心が落ち着いていくのを、ユリエルは感じていた。それほどに、このエトワールという青年の持つ空気は穏やかで、包み込むような優しさを持っていた。  やはり、多少気持ちが弱っているのだろう。気ばかりが焦っている。だから、彼の穏やかな包容力に寄り添いたい気持ちになるのだろう。 「疲れているのかい?」 「えぇ、少し」 「辛いなら、どこか場所を探そう」  温かく大きな手が触れる。意外と節くれた、硬い手をしている。だが、気遣わしく触れてくれるのは何よりも優しく、安堵した。 「気遣いのみで。巻き込まれる前に発つつもりです。詩人を害するは天への道を閉ざす行い。けれど、今はそんな事が起こってもおかしくはありません。人の心は荒れてしまえば、後は悪魔が囁くものです」 「そうだな…」  ユリエルの意地悪な言葉に、エトワールはとても悲しそうな顔をする。金の瞳が、本当に悲しげに眇められた。  ユリエルは手を伸ばしてみた。エトワールの触れる手に、手を重ねてみた。  心地よく思える。何よりも安らぐ。まるで半身を得たような、不思議な感覚だ。  こんな風に他人を傍に感じたことはない。弟のシリルでさえ、こんなに近くはないというのに。今日初めて会ったこの青年には、これほどまでに安らぎを感じる。 「不思議な人。持たぬ私の心を捕える者が、まさかいるとは」 「それは俺も同じだ。何故か分からないが、俺も君をとても近く感じている。初めて出会ったとは、思えないくらいだ」 「では私たちは、同じ星を持つ者なのかもしれませんね」  コロコロと鈴を転がすように笑うユリエルは、自分の言葉を反芻して妙に納得した。  星は時に双子のようであるという。運命の相手に巡り合う事を「同じ星を持つ」と言うくらいだ。双子の星は寄り添って離れる事はない。同じく瞬き、夜を飾る。  隣で、エトワールも妙に納得したように笑って頷く。その笑みの気持ちよいこと。心からそれを信じるようだ。 「では、巡り合うべくして巡り合ったのだろう。旅人の神に感謝しなければならないな」  実に優雅に言うものだから、ユリエルはキョトとしてしまう。そして次には愉快そうに声を上げて笑った。 「どうした?」 「いいえ。貴方は旅人にしておくには惜しいと思いまして。饒舌な人、貴方は詩人のようですね」 「そのような美意識は持っていない。俺は不粋な男だよ」 「また、そのような事を」  笑いを収め、ユリエルは真っ直ぐにエトワールを見る。そして、ゆっくりと口を開いた。 「出会いは時に残酷なもの。離れがたい気持ちを抑えて手を離すのは、こんなにも名残惜しい。ですが、詩人が宿り木を求めれば死んだも同じ。これで、行く事にします」  本当に名残惜しい。だが、今のユリエルには何もできない。やるべきことが多すぎる。心の癒しなど求めている場合ではない。  身を引き、丁寧に礼をする。だがエトワールは少しだけ近づいて、その手を取って甲に唇を押し当てた。 「月は人を優しくも、裸にもする。俺は最初、君は月よりの使者ではないかと思った。驚かせては消えてしまうかと、そっと寄り添っていたのだが。時が来れば消えてしまうと、覚悟しておかなければならなかった。美しいリューヌ、夜は人を獣に変える。不埒な輩に囚われる前に、お帰り」  まるで歌うような流れる言葉に、ユリエルの方が頬を染めてしまう。あまりにクサいが、それが似合う人もいる。普段ならば笑い飛ばすだろうが、今はすんなりと受け入れてしまった。  ユリエルもまた、エトワールの手を取ってその手の甲に唇を寄せた。 「月は恋人たちを引き合わせ、その心を裸にするといいます。今宵私は寄る辺なく、引き寄せられるようにここにきました。そして、貴方に出会った。この出会いを月の女神に感謝し、旅人の神に願いましょう。貴方に、旅人の加護があらんことを」 「俺も願おう。旅人の神が君の上で微笑むことを。そして叶うならば、再びどこかで巡りえることを」 「場所は離れても、同じ陽の下、月の下におります。世界は広いようで、案外狭いもの。旅人の神も再び、気まぐれを起こしてくれますよ」  そう言うと、名残惜しいがユリエルは手を離して背を向けた。そしてゆったりと、入ってきたのと同じ門へと向かうのだった。

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