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第36話 海辺の再会(ユリエル)
翌日の日中は、準備や確認、読書をして過ごしたユリエルだったが、さすがに夜になると落ち着かなくなった。レヴィンとアルクースは意外と気が合うのか仲良くなり、今頃は酒場で遊んでいる。
ユリエルも決心して外に出る事にした。銀の髪を水色に染め、詩人の服を着こみ、首に旅人のお守りを下げる。手には竪琴を。剣なんて不粋な物は持たない。
その姿で、ユリエルはこっそりと海の見える港へと向かった。
港に人影はない。ただ静かな波の音だけが耳につく。この時間、大抵の船員は休んでいるか、酒場で遊んでいる。特にユリエルが来たのは港の端。停泊している船はない。
海を見渡せる桟橋に腰を下ろし、ユリエルは竪琴を爪弾いた。
『太陽に神あり、月に女神あり
日に二度顔を合わせたり
想い募り叶わぬと泣く二人の神に、創造主は言う』
「日に闇が差したならば、二人を引き合わせようと」
背後でした穏やかな声に、ユリエルは心臓を鷲掴みされたような気持ちで振り返った。そこには、望んだ人の姿があった。穏やかな金色の瞳が優しく見つめている。
「どうやら旅人の神は、俺達二人に加護を与えてくれたらしい。出会えてよかった、リューヌ」
「私も貴方に会えて嬉しく思います、エトワール」
ユリエルは彼を隣へと招く。それに応じて、エトワールも隣に座った。そして共に、同じ海を見つめた。
「なぜ、ここへ?」
エトワールに問われ、ユリエルは一瞬言葉につまった。なんと言っていいか、迷った。真実を告げられない以上、嘘をつくしかない。それがほんの少し心苦しい。
「海が、見たくなったのです」
彼に偽りを告げるのは苦しい。だが、正体を明かせないのだから、仕方がない。むしろ正体を偽っているからこそ、心はとても素直だった。
「奇遇だ。俺も近くを通り、海に誘われたんだ」
穏やかに柔らかく彼が笑う。金の瞳はどこまでも温かく、ユリエルを見ていた。
「あれから、どのように過ごした?」
「小さな町や村を転々としておりました。貴方は?」
「同じようなものだ。野宿をしながら、町を転々としていた」
ほんの少しの嘘を織り交ぜて、それでも心はいつも以上に偽りがない。彼の傍は心地よく、温かく感じる。緊張している今、ユリエルはこの温もりを離し難く思っていた。
「月を見るたびに、君の事を思い出していた」
「え?」
不意に言われた言葉に、ユリエルは心臓が鼓動を早めるのを感じた。
ユリエルも同じだったからだ。ふとした時に、特に苦しい時や興奮した時に思い出しては、温かく幸せな気持ちになった。
「おかしなものだ。こんな気持ちは、生まれて初めてなんだ。誰かを思い眠る時間を、これほど幸福に思うなんて」
「それは、私を口説いているのですか?」
とても優しく甘い表情でエトワールが言うものだから、ユリエルはからかうように言った。
だが隣のエトワールはふと驚いた表情をして、次には僅かに顔を赤くする。その様子に、ユリエルの想いは僅かに甘く期待を持った。
「…分からないんだ。そもそも、俺は今まで恋愛などしたことがないから」
「それは勿体ない。貴方なら、女性が放ってはおかないでしょうに」
意外な言葉に、ユリエルの期待は少しずつ膨らむように思う。恋愛など知らないという彼が、では一体なぜこのように、甘く誘うように囁くのか。無自覚でもいい、多少は情があるのだと、都合よく解釈してもいいのだろうか。
エトワールは困ったように苦笑する。そして、本当に恥じるように頬をかいた。
「前にも言った通り、俺は不粋な男なのだろう。女性はどうも理解しがたい。突然酔ったふりをしたり、胸を押し当てたり。素知らぬふりをしたり人に任せると、怒りだしたり殴られたりする。彼女たちが何故怒るのか、俺には未だに分からないままだ」
「それは…殴られることを十分にしているように思いますが」
女性たちは明らかに彼を誘惑していたのに、彼がつれなくするものだから怒ったのだろう。案外鈍いのか、それとも色恋に嗅覚が働かないのか、もしくは分かっていて無下にしているのか。
「何か、まずい事をしていたのか?」
「本当に分からないのですか?」
「あぁ」
「その女性たちは、貴方を誘惑していたのですよ。酔ったふりをして気を引いたり、身体的な魅力を見せつけたり。それなのに貴方がつれなくするから、殴られたのですよ」
「そうだったのか!」
本当に驚いた顔をして言うものだから、ユリエルは思わず声を上げて笑った。これは本当に鈍いらしい。そんな彼が、少し可愛く見えてきた。
そして、そんな鈍い彼が自分にこのような想いを寄せる心に、期待してしまう。
何を思って、彼は忘れられなかったと言うのか。ユリエルは好奇心と共に、淡く踊る気持ちに鼓動を早めた。
「では、そんな鈍い殿方がなぜ、男の私にそのような思いを抱くのです? よもや、私を女と間違えてはいませんよね?」
金色の瞳が僅かに見開かれ、次には本当に困った顔をした。考え込むような、困惑しているような表情。それを見て、ユリエルは笑みを深くする。これは、思ったよりも脈がありそうだ。
そして、そんな事を思う自分もどうかと思う。自分は、彼に誘われたいのか?
自分に問いかけても、答えは出てこない。ユリエルもまた、恋愛などしたことがない。だからこそ、とても不思議だった。思うだけで穏やかになり、優しく包まれるような安心感を得られる相手なんて、出会ったことがない。
だが、これが誰かを『好きになる』という気持ちなのかもしれない。王太子ではない、ユリエルという一人の人間が、求めたものなのかもしれない。そう思うと、妙に納得した。
今の感情が素直な気持ちであるのなら、この衝動が求めたものならば、嘘はないだろうと。
「エトワール」
未だ答えが出ないのか、エトワールは難しい顔のままだ。柔らかく笑い、ユリエルは追い詰めるように迫る。それに促され、エトワールもまた考えながら口を開いた。
「性別は、認識している。だが…なぜだろう。俺にも分からない。分からないからこそ、もう一度会いたいと望んだ。会えば、この胸にあるものが分かるかもしれないと思ったんだ」
「それで、分かったのですか?」
心を決めたユリエルには余裕がある。欲しいものを素直に欲しいと受け入れれば、気持ちは楽だ。後は彼の心を確かめてから、縋るでも諦めるでも、迫るでもしてみよう。
「なんと言えば、いいのか…。傍にいて、温かく穏やかな心地になれる。とても安堵して、欲しているのかもしれない。たった一度会っただけの君に、こんな気持ちを抱く理由が俺にはわからない。だが、この想いは消せそうにない」
「どうしてその口説き文句を、女性に言ってあげないのですか?」
聞いているユリエルの方が恥ずかしくなるような口説き文句だ。思わず顔が熱くなってくる。それでも、悪い気はしない。
「本当に初めてなんだ、こんな気持ちは。正直、俺も戸惑っている。君はどうして、そんなに意地悪な事を言うんだ?」
「意地悪ですか? 私はこれで正直な人間ですよ」
なんて、からかうような口調で笑いながら、ユリエルはエトワールを見る。彼の方は決まりが悪そうに、頬をかいた。そんな彼が少し可愛くも見え、ユリエルは笑う。
ひとしきり笑って、次には悪戯な瞳でエトワールを見た。
「そんなに気になるのなら、確かめてみてはいかがですか?」
「ん?」
不意の言葉に固まるエトワールを、ユリエルは見る。何を意味しているのか分からず、戸惑っているのが分かる。そんな彼に溜息をつき、ユリエルは更に体を寄せた。
「定まらぬ心を考えても、答えなど分からぬものでしょ? それならばいっそ、体に聞いてみてはいかがですか?」
「…何を言っているのか、分かっているのかい?」
一つ低くなる声、厳しくなる表情。それは予想以上に男を思わせるもので、見つめていると胸の奥が熱くなる。
あぁ、やはり気持ちは彼を求め、体はその証を求めるのだな。
そんな思いに、ユリエルは苦笑した。
ユリエル自身は男同士という事に嫌悪を持っていない。軍籍に長くいて、そうしたものに慣れたのだろう。ユリエルには性欲を慰める係がいて、その相手は大抵が男だ。世継ぎ問題があるからだ。
その場合も、ユリエルは当然抱くほうだ。
ただ、興味はあった。同性という無理のある行為だというのに、それでも抱かれる側は徐々に気持ちよさそうにしていた。案外悪くないのかもしれない。
もしもそのような事を試すなら、気持ちのある相手がいい。そう、彼がいい。
「分かっているつもりですよ」
「男に抱かれる趣味があるのか?」
「いいえ。ただ、貴方ならば心地がいいだろうと思いまして。私も貴方と同じ気持ちでいました。貴方の傍は心地よく、交わす言葉に胸が躍る。こんなに誰かを心に留め、反芻して幸せを感じるなど、今までありませんでした。だからこそ、抱かれてみたいと思うのです」
ほんの少し迫るように近づくと、エトワールはビクリと震える。それでも逃げないから、そっと手を重ねてみた。
「これもまた、神の悪戯なのかもしれませんね。不意に出合わせ、人の心を弄ぶ。けれど、踊らされるのもいいかと思っています。貴方は、嫌ですか?」
「…神もまた、とんでもない悪戯をしかけるものだ。本当にいいのか? 俺は、途中で止められる自信はないぞ」
「貴方が私を、恋人のように慈しんでくれるのなら」
痛いのも乱暴なのも遠慮願いたい。最初は痛いだろうから、それには耐える。だが、乱暴にされて陶酔する趣味はない。
そっと、恐れるように腕が回る。抱き寄せられるのに任せ、身を寄せる。自分の鼓動と、彼の鼓動が聞こえてきて、随分耳についた。早いテンポで鳴っている。それなのに、寄り添う温もりが愛しく思えた。
「本当に、構わないのか?」
「くどいですよ、エトワール。私は一度言った事を引っ込めたりはしません。後は、貴方の気持ちしだいです」
しっかりと見据え、逃げる気はないと彼に伝える。迷うように揺れる瞳が、やがてしっかりと見つめるのを感じた。心は定まったのだと、分かった。
もう一度強く抱き寄せられ、髪を梳かれ、心地よくそれに従う。腕の力が緩み、少しだけできた距離を埋めるように、エトワールの柔らかな唇が額へと落ちた。
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