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第85話 戦いの後(1)

【ユリエル】  黒衣の背が、見えなくなった。  ユリエルは馬上から落ちそうなほどに、力が入らなかった。  エトワールが、ルルエ王だとは知らなかった。知っていたなら、溺れたりはしなかった。ただ、もう遅い。こんなにも心が求め、すれ違った事に悲鳴を上げている。 「なぜ…」  どうして、こんな酷い仕打ちをするのか。心が砕けてバラバラになってしまいそうだ。彼を前に、引き裂かれるような痛みが走った。あの温かな場所は、幸せはもうこの手にない。二度と手に入れる事はできないのだ。  涙が出そうになった。けれどそれは、近づいてきた馬蹄に引っ込んだ。 「ユリエル様」 「…グリフィス、状況は」  近づいてきたグリフィスを前に、ユリエルは表情を引き締める。悲しみと苦しみを心の深くに沈めて、王の顔をした。取り繕うに必死だった。 「ルルエ側の砦に、白旗が上がりました。占拠が完了したのでしょう」 「…行きましょう」  彼がいた砦。彼の気配が残る砦。それは悲しくもあり、嬉しくもある。少しでも触れられる事に、僅かな喜びを感じている。  こんな、複雑な感情など知らない。それでも止まれずに、ユリエルは噛みしめるように踏み出した。  砦の門の前には、レヴィンがいた。壁によりかかり、ユリエルを待っていた。その表情は苦痛と疲労に歪み、嫌な汗を流していた。 「レヴィン、どうしました!」 「やぁ、陛下…あっちには怖い暗殺者がいるよ」  馬を降りて駆け寄ったユリエルに向かい、僅かに踏み出したレヴィンの膝が震えて落ちる。何とか踏みとどまろうとした、その瞬間に歪む表情と滴る血を、ユリエルは青ざめる思いで見た。 「レヴィン!」  倒れそうなレヴィンの体を支え、ユリエルはゆっくりと彼を座らせる。押さえている脇腹からは未だ血が溢れていた。 「グリフィス、ロアールを連れてこい!」 「は!」  グリフィスが愛馬を走らせる。その間に、ユリエルはレヴィンの体を担いで砦の中へと入っていった。  砦の中は綺麗なものだった。入ってすぐの部屋にレヴィンを寝かせたユリエルは、傷の周囲の衣服を剥ぐ。  その心中は、後悔と焦りで一杯だった。こんなにも彼に負担をかけてしまった事に、不甲斐なさを感じて苦虫を嚙み潰している。  レヴィンの傷は出血の割に浅かった。その出血も、止まる様子を見せている。傷ついたまま動き回ったせいで、止まらなかったのだろう。  ユリエルはすぐに綺麗な水で傷を洗い、真新しい布で傷を強く圧迫した。 「いっ、た…。陛下、もっと優しく…」 「いくらなんでも装備が薄すぎます!」  胸当てもつけず、布服の下にチェーンメールだけという軽装。頭も腕も守っていない。赤毛なんて目立つのに、一切構わず無防備なままだ。  その時、部屋の外がにわかに騒がしくなる。そして、駆けつけてきたシリルが青い顔をして戸口に立っていた。  目に見えて震えるシリルは、その場から動けない様子だった。それを見るのは、ユリエルにとっても苦しいものだ。 「お、止血はしてそうだな。さすが陛下、手際が良くて助かる。どれ、診るから全員出て行きな」  緊張感のない口調で言ったロアールが部屋の中に入り、問答無用で全員を追い出してしまう。  出されたユリエルは、未だ震えが止まらないシリルを前に掛ける言葉を探した。だが、上手く出てこない。 「…シリル、おいで」  ユリエルの招きに、シリルは大人しくついてくる。その目はしっかりと据わっているように見える。これは、殴られるくらいでは済まないかもしれない。それでも、全てを受け入れるつもりだった。  ユリエルは砦の二階にある落ち着いた一室を選んで入った。そして、シリルと向き合った。 「兄上」 「彼に命じたのは私です。私が憎いのなら、今のうちに好きなだけ、殴るでも蹴るでもしなさい」  シリルの手が、痛いくらいに握られるのが分かった。ただ、それだけだった。食いしばるような表情には、悔しさが滲んで見える。そしてその目は、ユリエルを見据えた。 「兄上、お願いがあります」 「お願い?」  思いがけない言葉に、ユリエルは問い返す。小さな体を震わせ、拳を握り、噛みしめる唇は跡がつきそうなくらいだ。そんな状態で、シリルは言葉を続けた。 「僕に、剣を教えてください。僕を守れるくらい」  その言葉は、痛いくらい切なくて真剣だった。 「分かっています。レヴィンさんは兄上を守ろうとしたのでも、職務の為に無理をしたのでもない。レヴィンさんは、戦えない僕を守ろうとしてくれたんです。昨日の夜、守る理由が出来たって言っていました。僕が、レヴィンさんを殺してしまう所だったんです」  シリルの瞳から、我慢できずに涙が落ちる。それでも強くなろうと踏み込んだシリルを、ユリエルは受け入れた。  無力が悪いわけではない。シリルは今まで守られてきた。それが普通だった。そこから自らの意志で抜け出そうとするのは、勇気のいる行為だ。シリルにとって辛い日々になるだろうに。 「剣を握る事の意味を、理解していますか?」 「はい」 「…気持ちは、変らないのですね」 「…守られたままでは、レヴィンさんの負担になります。あの人が死んでしまったら、僕は自分を呪います。分かったんです、本当に大切な人の傍にいる為には、僕も強くならなければ」  欲しい者を見つけた強さだろうか。新緑の瞳が真っ直ぐに、ユリエルを見ている。幼いとばかり思っていた少年は、いつしかこんなにも逞しく、強い目をするようになっていた。 「ロアールに、話しをしておきます。ただ、彼の訓練は厳しいものですよ」 「はい、兄上」  返ってくる返事はとても力強い。もう、子供ではないのだろ。  弱くても良かったシリルは、自らその殻を破ろうとしている。戦う事の厳しさと残酷さを、ロアールは教えるだろう。だが、心配はしていない。今のシリルなら、乗り越えられると信じている。  健気に、真剣に、幼かった弟は立ち上がった。ユリエルは手を伸ばし、その体を強く抱きしめる。  縋ったのだ、不意に襲った苦しみを飲みこめなくて。情けないと自覚し、それでも苦しくてたまらなかった。 「兄上?」 「すみません、シリル…。すみません」  戦う事がこんなにも苦しくて、こんなにも残酷な事だとは今の今まで知らなかった。人との出会いがこんなにも、残酷だとは知らなかった。死ぬよりも辛い。心が潰れてしまいそうで、苦しくて息ができない。  シリルは黙って、ユリエルに抱かれていた。受け止めてくれるような柔らかさと温かさで見ていてくれる。それが、有難かった。  どうにか気持ちが落ち着いて、ユリエルは手を離す事が出来た。そして、不器用に笑う。 「レヴィンのお見舞いに、行ってあげなさい。意識はありましたから、少しだけなら話もできるでしょう。彼もきっと、安心しますよ」 「はい、兄上」  どこか心配そうな笑みを残して、シリルは駆けていく。その背を見送り、ユリエルは立ち上がった。  そうして向かったのは、一番大きな扉の前。そこを開けると、どこか彼の気配があるように思えた。 「エトワール…」  呼びかけても、それに応える声はなかった。

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