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第86話 戦いの後(2)
その夜、タニス側はようやく落ち着いた。負傷兵の手当ても終わり、死んだ者の弔いも済ませた。
既に深夜に近い時間。ユリエルは砦の中庭が見える場所に腰を下ろしていた。
「風邪引くぞ、ユリエル坊ちゃん」
「ロアール」
投げ込まれるように上着が飛んでくる。それを受け取って、ユリエルは薄く笑った。ここで、彼を待っていたのだ。
「兵達の様子は?」
「数人、峠を越えてくれた」
「レヴィンの容態は?」
「ありゃ、簡単には死なないよ。多少熱があるが、明日には引いているだろう。今はシリル様が傍についてる。甲斐甲斐しいもんだよ」
ユリエルの隣にどっかりと座るロアールは、ぼんやりと空を見ている。ユリエルも空を見ていた。憎らしいくらい綺麗な、月を。
「あいつの事、知ってたのか?」
「本人に聞いてはいません。ですが、なんとなくは」
「なら、いいか。分かってんなら、何も言わない」
ロアールが何を言いたいのか、ユリエルは分かっていた。ロアールも察したように、それ以上は言わない。その代り、ニッカと笑った。
「それにしても、シリル様は強くなったな。逃げないそうだ」
「大切な者を見つけたのですよ。ロアール、すみませんがあの子に剣を教えてあげてくれませんか?」
「俺、甘やかさないけれど?」
「当然です。命がかかっているのですから、甘やかすなんてことしないでください」
ユリエルの言葉は重い。それは、戦う事の非情さを知っているからだ。
敵は剣を持たない人間に対しては寛容だ。下手な事をしなければ命まで奪われることはない。だが、剣を持った人間に対しては決して優しくはない。
彼が、そんな非情な人間ではないと信じてはいるが。
この期に及んでまだ、彼を信じている。逢瀬を重ねた彼はそんな非情な人間ではない。慈悲深く、愛情深く、優しく包容力のある人だ。だから…。
「まぁ、俺のやり方についてくるってなら、教えるさ。それが、シリル様がここにいる、自分に課した条件ならな」
「大丈夫ですよ。あの子は強いから」
溜息をつきつつ苦笑したロアールに、ユリエルも笑う。急速に強くなるシリルはきっと、持ち前の頑固さと芯の強さで乗り越えていく。そう、ユリエルは確信している。
「それにしても、まったく似てないと思っていたが、やっぱ兄弟は似るもんだな」
「ん?」
「覚えてるかい? 貴方が俺に剣を教えてほしいと言った時の事を」
「覚えていますよ」
「今のシリル様は、あの時の貴方と同じ目をしている。ちょっと気力負けしそうな程、強くて強引な目だ。まるで歴戦の騎士のようでおっかないよ」
その言葉に、ユリエルは苦笑した。
覚えている。母が死に、城の中に味方はいなかった。強くならなければならなかった。そうでなければ、城の中で死ぬのだと分かった。戦う力を、殺せる力を持たなかければ殺されるのは自分のほうだったのだ。
「平気か、ユリエル坊ちゃん」
不意に声をかけられる。その声に、ユリエルは弾かれるように視線を向ける。ロアールは視線を合わせようとはしない。あえて、見ないようにしているのだろう。
「今の貴方は、母親の墓前に立っていた時よりも酷い顔だ。何か、あったのか?」
「私の心配は、無用です」
「…了解しました、陛下」
ロアールという人物は、人の深くを見る観察眼を持っている。ユリエルは追及を拒絶した。そしてロアールもそれを察して、下がってくれた。
「では、これで失礼します。シリル殿下の事は明日から」
「頼みます」
それだけを残して、ロアールは一礼して下がっていく。ユリエルもその背を見送って、席を立った。
ユリエルは王の寝室へと戻った。
ここは、エトワールの使っていた部屋。薄い服に着替え、体をベッドに埋める。僅かだが、香りが残っているように思えた。昨夜までここで、彼は眠っていたのだろうか…。
「っ!」
こみ上げてくる嗚咽を抑えられなかった。涙が頬を伝った。声を大きく上げて泣くことはできなくて、枕に顔を埋めた。だがそれでも、僅かに漏れる声は心のままに痛かった。
もう、彼との道は交わらないのだろうか。もう、寄り添う事はないのだろうか。幸せな時間は、場所は、戻ってこないのだろうか。あの人は、本当に遠い世界の人になってしまったのだろうか。
僅かに残って、明日には消えてしまうかもしれない残り香だけが、ユリエルの傍にあった。
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【ルーカス】
ルーカスはラインバール平原からさほど離れていない場所に野営を張っていた。
一番大きなテントでは、ルーカスとガレス、そしてキアがいる。体勢を整えればこのまま、戦う事はできるだろう。
だが、ルーカスはあえてそれをせず、リゴット砦へと下がる事を提案した。
「頑張ればもう一戦できるよ、陛下!」
「頑張る必要はないと、判断なさったのです。リゴット砦まで下がって態勢を整える事を考えれば、当然です」
「けど、追撃されないとも限らないだろ。それは痛手になるぞ」
「…それはない」
重いルーカスの言葉に、ガレスとキアは視線を向ける。ルーカスは先程から顔を伏せ、深く考え込んでいる。不審に思われたのかもしれない。
「陛下、何をお考えです?」
キアの言葉に、ルーカスは苦笑して首を横に振った。言えるわけがない。敵国の王を、心より愛してしまった。全てを知った今も、その想いに変わりがないなんて。
「タニスも痛手は同じだ。態勢を整えるのに、それなりに時間もかかるだろう。追撃の心配はしなくていい。一度しっかりと、こちらも立て直す」
「まぁ、陛下がそう言うなら」
「タニスは強いからね。僕が当たったタニスの密偵、あれは只者じゃないよ」
戸口で声がして、ルーカスは弾かれたように視線を向けた。そこには包帯を巻いたヨハンが、苦笑して立っていた。
「ヨハン、休んでいなくていいのか」
「もう、十分。深い傷はなかったしね。ごめん、陛下。役立たずで」
駆け寄ってヨハンの手を引いたルーカスは、柔らかなラグの上に座らせる。それに、ヨハンは申し訳なさそうに笑った。
「お前、ボロボロにやられてたけどさ。そんなに強いのがいたの?」
「グリフィス将軍に見逃してもらったガレスに言われたくない。…強かったよ、怖いくらい。多分、僕も見逃されたんだと思うけれど」
「ガレス、グリフィス将軍はどうだった?」
ルーカスの問いに、ガレスは腕を組んで考える。そして、ポンと自分の膝を叩いた。
「無理! あれは化物だよ。戦場で手ほどき受けてる感じだった。実力違いすぎる」
「タニス王とも斬り合ったのですよね? 王はどうですか?」
キアが話を向けるのを、ルーカスは心臓が痛い思いで聞いた。
たった一撃だったが、ぶつかったあの衝撃はまだ手に残っている。
「あの人、別の意味で怖いよ。なんていうかな、気迫とか覚悟とか、そういうのが怖い。自分の事なんて庇わない感じだし、剣も鋭いし」
ルーカスは黙り込んだ。
逢瀬を重ねた相手が、想いを繋いだ相手が、まさか敵国の王だなんて。裏切られた気持ちがないわけではない。だがそれ以上に、これまでの関係が作り物だったのかと、苦しくなる。
「陛下?」
「あ…」
深く考え込んでしまって、呼ばれている事に気付かなかったルーカスを幼馴染たちが心配そうに見ている。それに、ルーカスはぎこちなく笑った。
「疲れているのですよ、陛下。今日の所はこれで、お暇します」
「…すまない」
キアに促されるように、他の二人も席を外してくれる。それを見送り、ルーカスは簡易の寝台に横になり、頭から毛布をかぶった。
頭の中は常に、「彼が何故…」という言葉で一杯だった。
おそらく、あちらも知らなかったんだ。出会いは偶然だったはずだ。ただ偶然に知り合って、情を交わし、溺れてしまった。
本気だったんだ、深く刻む程に。戦いを乗り切る目的にするくらい。だからこそ、こんなに苦しい。
「彼も…」
苦しんでいるだろうか。同じ気持ちで、いてくれているだろうか。今頃、想って涙を流してくれているだろうか?
そうだとしたら、幸せだ。たとえ叶えられない想いでも、心まで離れていないと思える。
こんなにも絶望的なのに、それでも想いを捨てられない。思えば胸が温かく、熱く、苦しく思う。続けていくことはできない。だが、一目だけでも会いたい。
外に目を向ける。そこには、綺麗な月が浮かんでいた。出会ったあの日と同じ、綺麗な月が。
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