87 / 178
第87話 もう一つの親書(1)
【ユリエル】
翌日、ユリエルはどうにもやる気が出なかった。
何も手につかない。それを、周囲の者は心配した。その結果、この日は休みとなったのだ。
だが正直、休みというのは余計に考えてしまって辛かった。仕事をしている方が気がまぎれるというのに。
部屋の中にいても辛いばかりだと、ユリエルは軽い装備で周囲の森に出た。自然の多い場所を少し散策すれば、気分転換にはなるだろうと思ったのだ。
その足は、自然と昨日エトワールに出会った場所へと向かっていた。
考えるのは、昨日の事。互いに装備を付けて、剣を持っていた。そして、言葉はあまりに少なかった。
それでも、戸惑っているのは分かった。互いに戸惑って、そして言葉と時間は足りなかった。
できるならばもう一度、彼に会いたい。
そこから更に奥へと向かうと、視界が開けてきた。そして目の前に、青い湖が見えだした。
聖域の中にこんな場所があったとは、知らなかった。清々しい風が吹き抜けていく。苦しいものや悲しいものを撫でていくように。
そうして辺りを見回すと、そこにもう一つの影があるのに気づいた。それは黒い髪に、凛々しい顔立ちの…。
「!」
見間違えるはずがない。肌を合わせたほどに、彼に惹かれたのだ。再会を願ってやまなかったのだ。そんな人を、たとえ遠目でも間違えるはずがない。
逃げなければいけない。そう、王であるユリエルが訴える。
話をしたいと、心が願う。その狭間で、体は迷って背を向けたまま動けなくなった。
決断なんてできない。できるはずがない。こんなにも、心が温かくなるのに。顔が見たいと願うのに。振り切れば息ができなくなるほどに苦しいと、分かっているのに。
それでもようやく、足が一歩前に出た。静かに離れれば、気づかれないままいられる。交わってはいけない運命だ。これ以上顔を合わせれば、心に逆らえなくなる。
「待ってくれ!」
後ろからかけられた声が、とても近かった。伸びた腕に抱き寄せられる。その腕は温かくて、逞しくて、逆らえない。抱き寄せられる体が心地よくて、縋りたくてたまらなかった。
「待ってくれ…リューヌ」
「エトワール…」
互いに躊躇いながら名を口にした。口にしたけれど、もう隠し事はばれている。もう、元通りになんてなれない。
「今夜、ここで待っている。一人で来てくれないか?」
「…来ないと、言っても?」
「そうだとしても、待っている」
腕が離れてしまうと、急に冷たくなるように思えた。
急いで振り向いても、そこにあるのは彼の背中だけ。軽装に黒いマントが翻るだけ。本当はその背中に言いたかった。「愛している」と。
ともだちにシェアしよう!