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第88話 もう一つの親書(2)
その夜、ユリエルは迷った。行くべきか、行かぬべきか。
そう思うのに、すっかり身支度をしている。軽装のまま、外套を纏う。
剣に手をかけそうになって、その手を止めた。彼と会うのに剣を持って出かけるなんて、考えられない。それは、彼を敵として見るのと同じだ。
でも、剣を持たなければいざという時、抵抗できずに確実に殺される。
彼に限って、そんな事はしない。彼はそんな人ではない。一人で来てくれといった。話がしたいのだろう。その言葉を疑ったら、全ての時間を疑う事になる。全ての時間を疑えば、心が苦しくて辛くて潰れてしまいそうだ。
悩んだ挙句、ユリエルは剣を置いた。そして、傍らにあった竪琴を手にした。もしも彼が嘘をついて兵を伏して死ぬ運命でも、それを受け入れる事にしたのだ。
こっそりと砦を抜け出し、森へと入る。
今夜は少し冷える。足を速めていくと、日中に見た湖が視界に入る。そこはすっかり夜の顔をしていて、湖面には月が映っている。
そしてその月光の下には、彼がいた。
「エトワール…」
「リューヌ」
互いに視線を向け、見つめ合うがその距離はなかなか縮まらない。見つめ合ったまま、少しの時間がたった。
「リューヌ」
「はい」
「…ユリエル」
「…はい、ルーカス」
本当の名で呼ばれる事がこんなにも苦しい。ユリエルは俯いてしまった。言葉がない。
「聞かせてくれないか、ユリエル。君は、俺の正体を知っていたのか?」
「いいえ」
これだけは断言できる。知っていたなら、こんな関係にはなっていない。なるはずがない。叶わない恋に身を焦がすなんて心は持っていない。
だが、ルーカスはそれを知って安心したように弱く笑い、近づいてくる。
目の前まできて見つめ合った瞳は、色々なものを秘めているだろう。戸惑い、困惑、苦しみ、愛情。だが、ルーカスの金の瞳はそれ以上の決意を秘めていた。
「もう一つ、聞いてもいいだろうか」
「どうぞ」
「俺と過ごした時間は、本物だったのだろうか」
偽りは多くあった。だが、心まで偽った事はない。例え神に問われても、これだけは真実だ。
「沢山の嘘をつきました。それでも、貴方と過ごし、肌を合わせた時間は嘘ではありません。気持ちを含めて、私は自分の心を偽った事はありません」
「…ならば、いいんだ」
強い腕に抱き寄せられて、ユリエルは戸惑った。戸惑ったが、触れた体温には逆らえなかった。
背中に腕を回し、抱き返して瞳を閉じる。近くに感じた体温と心音が、心地よい。安らぎを感じる。もう、離したくはない。
「愛している、ユリエル。全てを知っても、止められなかった」
「はい…。私も、貴方を想う事を止められなかった。愛しています、ルーカス」
苦しい気持ちが解けていく。温かな心が戻ってくる。惹かれてはいけない相手だと分かっていても、こればかりはどうにもならない。ここにいるのは王ではなく、私人だった。
顔を上げて、見つめ合って、ユリエルは少し背伸びをする。ルーカスは少しだけ、身をかがめた。そうして触れた唇は、甘いばかりではなかった。けれど嬉しくて、愛しくて心が震えた。
互いの体を抱きしめたまま、時間がゆっくりと過ぎていく。そうして思う存分互いの存在を確かめ合ってようやく、ユリエルは彼を離す事が出来た。
湖の岸に腰を下ろした二人は、月を見上げていた。
「どうして、剣を持ってこなかった?」
含み笑うような問いに、ユリエルは「貴方だって」と返した。きっと互いに、相手を完全に信じる自信はなかっただろう。そうであってもらいたい。
「信じる事にしたのですよ。これで死んだら呪ってやろうと」
「まぁ、俺も同じようなものだな。もしも君が俺を殺しても、俺は恨まない事にした。それだけのことをした」
「貴方だけの責任ではありませんよ。この出会いは…神が起こした残酷な仕打ちです」
「そうだとしても、出会えたことに悔いはない。交えた心と言葉に、恨みはない」
以前から思っていた。彼は時々、欲しい言葉をくれる。与えられる愛情が嬉しくて、与えたいと願う。与えられているだろうか。
「傷はもう、癒えたか?」
その言葉に、ユリエルの胸は痛んだ。思わず見上げた瞳は、とても静かだった。
「あの傷は、ジョシュがつけたものだったんだな」
「…私が憎いなら、貴方は剣を持ってくるべきでしたよ」
「…正直に言えば、失った直後ならそうしただろう。タニス王都で会った時なら、そうしたかもしれない。だが、今は痛んでも、憎しみにはならない。俺はもう、大切な者を失う苦しみを味わいたくはない」
大きくて少し硬い手が、ふわりと髪を撫でる。それは心地よく、胸が痛んだ。
「私が、手を下したのです。私は、彼を…」
「強かっただろ? あいつは、俺にも引けをとらないからな」
「全力でした。だからこそ、私も全力で彼に応じました。彼は最後まで、誇り高い騎士でした」
その言葉に、ルーカスは深く頷いた。
「すみません」
「それは、いいんだ。戦なのだから。だがユリエル、一つ聞きたい。どうして父王を殺した?」
凛とした声が問う。それは王の声だった。有無を言わせず、従える声。
だがユリエルも王だ。それに易々と答えるほど心は弱くない。言葉を選び、嘘にならないように考える。そして、口を開いた。
「あの人は、国の全てを家臣に任せて、王としての職務を放棄した。その結果、国内は腐り始めている。私はそこから、治療しなければならないのです。溜まった膿を手段を選ばずかきださなければならない。そこに、古い病巣は邪魔なだけでした」
「…そうか」
軽蔑されたわけではなく、受け入れられたことに驚きを隠せない。ユリエルは安堵したように、少しだけ力が抜けた。
「苦しくはないか?」
「父を殺した罪悪感なら、ありません。あれは、母を苦しめた。母が弱音を吐かない事をいいことに、存在すらないように扱った。私はその仕打ちを一度だって許していない」
「母親が、大切だったんだな」
「…あれほどに、凛として聡明な女性を他に知りません。王としての私を、育てた人です」
母がいなければ、あの人が教えてくれなければ、ユリエルはとっくに潰されていた。頼る者のない状況でも強くあれたのは、母の教えがあったから。誇りだったから。
「ユリエルにとって、母が生きる糧だったのだな」
「そうかも、しれませんね」
温かく微笑んでくれるこの人が、今後の支えになってくれるだろうか。そうであってもらいたいと願う。
だがそのためには、この争いを止めなければ。このまま戦争を続けるわけにはいかない。だが、それには大きな問題があった。
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