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第100話 疑惑(2)

 その夜、ユリエルはアルクースを自室にこっそりと呼んだ。  薄い夜着のまま迎えられたことに、アルクースは若干驚いた様子だったが、素早く入ってくれた。 「ごめん、寝るところだった?」 「いえ、早めに湯浴みを終えただけです。まだ寝る気はありませんでしたよ」 「なら、いいんだけれど」  戸惑いながらも椅子に腰を下ろした彼の前にブドウ酒を注ぐ。そして軽く乾杯をしてから、話しは始まった。 「まずはこれ、ダレン様から預かってきたもの。中を見ないで直接渡してほしいって頼まれて」  胸の隠しから一枚の封筒を取り出して、アルクースは差し出す。蝋印は間違いなく、刑裁官のものだ。 「頼んでいた仕事ですね。彼もまた齢を取っても優秀です」 「あんまり年寄りに仕事させちゃだめだよ。労わらないと」 「そうしたいのは山々なのですが、あいにく彼に代わる人物が育っていなくて」  長年、国の表と裏を見てきたダレンほど優秀な人物はいない。申し訳ない気持ちはあるのだが、もう少し力を貸してもらうより他になかった。  中身は、ここに来る前にお願いしていた国賊レベルの役人や地方役人に関する情報だった。  どうも地方では横暴な領主が多く、貧富の差が激しくなり餓死者が出る状況となっているらしい。予想よりも酷い内容だ。  ふと、視線が気になる。顔を上げると、食い入るようにアルクースがこちらを見ていた。 「気になりますか?」 「ならないって言ったら嘘になるけれど…ヤバイもの?」 「まぁ、国家機密レベルで」 「聞かない」 「賢明ですね」  本当に、彼は頭が良くて危険を冒さない。必要以上に危険を背負い込まないのは賢い事だ。  だが、国内がこれだけ荒れるとなると予想よりも厳しい状況が予測される。今考えているものでは、危険が大きくなりすぎる。これは二重、三重に手を打っておいた方がいいだろう。 「もしかしたら、国内の事でお前たちの力を借りる事があるかもしれません。荒事になりますが、お願いできますか?」 「陛下の判断で、踏み込んでいい事なら力を貸すよ。お頭も退屈してきたみたいだしね」  苦笑したアルクースがそんな事を言う。それに、ユリエルも頷いた。 「それで、こっちがユリエル陛下が御所望の情報。正直、これ以上はちょっと難しいかな」  簡素な紙が差し出される。ユリエルはそれを、ドキドキした気持ちで受け取った。  ルルエの使者の行方。色々なパターンを予測してきたが、どの位置に行くか。それは、この報告次第だ。  中を開ける。そこには、ラインバール平原を越えてタニス国内に入ってからの足取りが書かれていた。  いくつかの領地を通り、野宿は避け、途中までは順調に旅をしていたようだ。だが、とある領に入ってから、出た様子はない。その、最終地点…。 「現宰相が治める、リジン領シュトラーゼ」  予測しえた中でもそれは、もっとも面倒かつ、落とした時の利益が大きな相手。現在の国政を牛耳る人物を追い落とす可能性を秘めたものだった。 「話では、この町に入った所までは確認取れた。けれど忽然と姿を消してる。彼を泊めた町人は納屋を貸しただけで、その後は分からないって。荷物も全部消えていたらしいよ」 「おそらく、ここの領主が浚ったのでしょうね。彼が通ったルートは、現宰相の取り巻きばかりがいる場所です」  海沿いを行くルート。その道は現宰相の腰巻ばかりが領主を務めている。そのどこからか使者の情報が洩れて伝わり、姿を消した。そう考えるのが自然だろう。 「丁度、問題の多い奴等がいるルートです。一緒に掃除しましょうか」 「誰を使うつもり?」  アルクースが気のない顔で言う。けれど本当は、とても気にしているのだと思う。黒い瞳がこちらを気にしている。 「私と同等の力を持ち、尚且つ奴らがあしらいやすいと油断して、ボロを出しやすい相手」 「まさか、シリル殿下を使って国内掃除をするんじゃ!」  予想外だったのか、アルクースは席を立つ。その目は驚きと怒りを含んでいる。その黒い目を見つめ、ユリエルは正直に頷いた。これはもう、決めていた事だった。  そもそも奴らはシリルを王とする事を散々に迫ってきた。となれば、ユリエルが戦の前線に立ち手が離せない事を理由に、シリルを放り込めば食いつく。奴らはシリルを御し易いと考えているのだから、油断もする。ボロが出れば、こちらのものだ。  何よりシリルは最近、目に見えて逞しく成長した。武というよりは、精神面で強くなった。更に国政に関して鋭い目を持ち、不正や不義理を許さない頑固さを持っている。そうした彼の成長を知っているからこそ、ユリエルは賭ける事にした。 「シリル殿下に、あの腹黒い狸を狩れると本当に思っているの?」 「彼を大切に思う者が、彼を守っているなら可能です」 「レヴィンまで巻き込むの! どうしてそこまでして、平和的な解決を考えなきゃいけないの? 現状勝っているのに」  責める瞳は痛いが、これに負けているようでは勝ちは手にできない。ユリエルは真っ直ぐに見つめる。そして、誠意をもって対した。 「アルクース、武力による制圧がシャスタ族にどのような感情を抱かせたか、お前なら分かるはずです」 「それは…」 「どんな理由にしろ、死んだ人間は戻ってこない。そして、そうした人にも家族がいて、友人がいます。親がいて、兄弟がいて、友がいて。失った命の対価は、何をもってしても払えない。憎しみを持った者が子を生んで親となり、苦しみを子に伝えます。子はそれを孫に、ひ孫に。そうして憎しみは実体がぼやけたまま積み重なってゆくのです。そうした状況が、今のタニスとルルエなのです」  この点に関して、ユリエルは決して何も譲らない。  ルーカスとのことがあるだけではない。この思いはずっと、ユリエルの中にあった。既に憎しみの源流など、皆忘れただろう。それでも争いを止められないのは、積み重なったものと一部の人間の欲望からだ。 「シャスタ族の皆とは、この連鎖が生まれる前に一定の和解ができました。私にとってとても、幸いな事です。ですがもしもあの時、出会えていなかったら。長い苦しい旅の果てに、貴方達もタニスという国に対して大きな敵愾心を持ったはずです」 「…否定できない」  俯いて、アルクースは呟いて座った。そしてジッと、何かを考えている。そこに、ユリエルは更に言葉を重ねた。 「アルクース、私はこの戦いの連鎖を断ち切りたい。その為には、まず国内を正常化し、戦争をし続ける事に対して国民が向き合わなければならない。更には、ルルエとも交渉しなければなりません。その為にはこの使者の行方と、誰が戦争を望み、先導したかを明らかにすることも大事です。簡単ではなくても、例え茨道でも、道が少しでも見えているのならば私は諦めたくないのです」  分かってくれるだろうか。十人中十人が愚かだと言っても、見続ける理想を。綺麗ごとだとは承知しているが、それでも求める心を。 「アルクース、私の理想は愚かでしょうか?」 「…いいえ。ただ、現実味がない」 「そうでしょうね。でも、私は理想で終わらせたりはしません。必ず、叶えてみせます」  強く願って言った言葉に、アルクールは暫く考えて、次には力なく笑い、丁寧に頭を下げた。 「俺達は、貴方に忠誠を誓った。貴方の理想がそこなら、その理想に近づくために動くのが恩のある陛下への忠義だと思っているよ。だから、安心して使ってね」 「勝負に勝ったくらいで、そこまでの忠義は少し大げさですよ。それに、領地に関しては当然の対価です。いえ、今を考えるともう少しこちらが払わなければならないくらいです」 「お頭が勝負に負けたからってのは、ほんのきっかけ。俺達が陛下を気に入ったから、力を貸したいんだ。皆、色々あったけれど今では陛下に感謝している。シャスタ族は義理堅いんだよ」  温かな笑みと、信頼の眼差し。もしも本当の事を話したら、この信頼は失われてしまうだろう。売国奴と罵られ、軽蔑され、嫌悪されるだろう。  それでも転がった心は止められない。止める気もない。 「それでは、僕はこれで。陛下、おやすみ」  時計を見て夜もだいぶ更けた事を知ったアルクースが、一礼して出て行く。ユリエルもそれを見送った。  残されて考えるのは、弟に対する残酷な仕打ちと、それを躊躇わないでやるだろう自分の恐ろしさ。泣かれるだけでは済まないだろう。それに、ルーカスにも一度話さなければ。  けれど、ここでどうにかしなければ、あの二人を完全に共犯者にしてしまわなければ今後は開けない。シリル一人を狼の檻に入れるわけにはいかないのだから。  ユリエルは僅かな罪悪感を抱きつつ、その夜は眠れぬままに過ごすのだった。

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