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第118話 天使(2)
【レヴィン】
レヴィンは強く馬の腹を蹴り、夜風を切ってドラール村へと向かっていた。ヒューイは多分背後からついてきている。少し遠いが追ってくる馬蹄が聞こえる。
レヴィンの頭の中はシリルの事で一杯だった。
あの子はまだ自分の身を自力で守れるほどの力がない。一対一ならまだ逃げるくらいの隙を作る事はできるだろう。だが複数は絶対に相手にできない。
大体、今のシリルの状況は鴨葱そのものだ。力の欲しい人間にしたら、あれほど都合のいいご馳走はない。ユリエルがそのようにお膳立てしたのだから。
できるだけ早く事を収束させる。そして、直ぐに彼の元へ戻る。その思いが通常一時間はかかるドラールへの道のりを半分にした。
村は既に地獄絵図そのものだった。もとより飢えて死んだ人間をそのままにしていたから、辺りは酷い臭いがした。生きている人間だって満足に動ける者はそういないだろう。
賊は人がいない民家を物色している最中だった。
「なんてこと…」
追いついたヒューイが震える声で呟く。目を見張る光景も、今のレヴィンには全て腹立たしいものでしかなかった。
「どいつもこいつも…虫けらめ」
レヴィンの怒気は既に明らかな殺気だった。側にいるヒューイが一つ震える。
「ヒューイ、お前は自分の家に行け。お前の弟が間に合っていれば、無事な村人をかくまってるだろ。あそこが一番守りが堅い」
「わかった!」
馬首を繰って馬を走らせようとするヒューイは、だが数歩その足を進めただけで止まってしまった。賊が二人を囲うように集まってきている。十人…二十人はいるだろうか。
「おい、こっちだ!」
数人の賊が声を上げる。それに気づいた集団が更に二人の周りに集まる。すっかり囲まれ、人垣のようになってしまった。
「本当に、イライラする。ヒューイ、お前少しは腕が立つか」
「恥ずかしくない程度には」
「十分。俺から離れろよ。それと、馬を預かってくれ」
言うと、レヴィンは馬を下りた。前に出ている賊は馬に乗っている。普通なら馬を下りたレヴィンが不利だ。だが、そうではない。馬は逆にレヴィンの機動力を削ぐ。
「いい身なりだ。そこらの貧乏人より金もってそうだぜ」
「おいお前! 金目の物を素直に差し出すなら、苦しまないように殺してやるよ」
下卑た笑いだった。それにもレヴィンは反吐が出る。こんなものを相手にするのに大切な者から離れたのかと思うと、過剰なまでに冷酷になる。
だがそれ以上に、今のレヴィンには時間がない。こんな意味のない言葉を大人しく聞いてやる時間はないのだ。
顔色を変えないレヴィンに怒鳴るように口を開けた男は、そのまま自分の瞳が夜空を映した事に驚いただろう。辺りは怒声なのか悲鳴なのか分からない声が響いた。
「レヴィン…」
気分が悪くなるような濃度の血の臭いに、ヒューイが呻くような声を上げる。
それは一瞬の事だ。怒気を露わにした男の首を、レヴィンは躊躇う事無く切り落とした。地を蹴って男の首を横に切り落としたレヴィンはそのまま馬の鞍に立ち、邪魔な巨体を蹴り落とす。意志を無くした体はズルリと地に転がった。
「やりやがったな!」
「くそがぁ!」
聞くに堪えない汚い言葉に、レヴィンの瞳が加虐さを増す。その口元は、楽しげに笑っていた。赤い髪を更に赤く染め上げていく。恐ろしいほどの速さだ。手にした剣はまるでそれ自体が殺意を持っているように動く。
馬上から馬上へ、レヴィンは移り殺していく。数人が逃げたが、逃げた者は追わない。そうしてほんの数分の間に、レヴィンは足元に八体の人だったものを転がして、薄い笑みを浮かべていた。
「頭の悪い雑魚が、俺の前に立とうなんておこがましいんだよ。死んで詫びろ」
目の端に、この光景を見て震えるヒューイの姿が映った。それが妙に現実に引き戻す。興奮した気分が一気に萎えるくらいには、自らを異質と認識できるものだった。
「ヒューイ、震えてる暇はないぞ。さっさと家に行ってこい」
「あ…あぁ」
慌ててヒューイは走り出す。その背は賊から逃げたのか、それともレヴィンから逃げたのか。そんな思いがあって、思わず苦笑が漏れた。
一人残ったレヴィンは、血が沸くような感覚を思い出していた。どれだけ遠ざかっても、忘れないものだと。
血にまみれた事など珍しくもない。ただここしばらくは、随分とお行儀のいい肩の凝る戦場ばかりだったから。こんな風に雑多な中での殺戮は、忘れるくらい久しぶりだ。
「あそこだ! あそこにいるぞ!」
逃げた奴らが仲間を引き連れて戻ってきた。レヴィンの口元に、鮮やかで薄い笑みが浮かんだ。手に手に武器を持った男達が人相悪く近づいてくる。ご丁寧に弓を持った奴までいた。そうした男が、弦を引いてゆく。
レヴィンは軽く伸び上がると、剣を無造作に持ち一気に男達へと走り出した。
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【ヒューイ】
ヒューイは震えながらも走った。震えが未だに止まらない。目の前で起こったあまりに恐ろしい光景は、簡単に忘れられるものではなかった。
あれは死神だ。しかも無慈悲な部類のものだ。決して味方だと安心しきれない男だとは思っていたが、まさかあそこまで恐ろしいものだったとは。
ヒューイは逃げたのだ、賊ではなくその前に悠然と立つあの男から。あの場にいては更なる惨状を見るだろう。その刃がヒューイに向くことはないだろうとは思うが、だからといって側にいられる精神状態でもなかった。
家が見えてきて、そこへと急ぐ。だが屋敷は予想通り賊に取り囲まれてどうすることもできない状態だった。やたらとでかい男が一人、部下が扉をぶち破るのを心待ちにしている。
そこへ、男が一人慌てた様子で走り込んできた。
「野郎共! 中の奴らを一人残らず殺しとけ! その後でゆっくり、金目のものを頂こうや」
野太い声が夜闇に響き、男はその場を離れて行く。行くところの検討はついた。レヴィンのところだろう。雑魚じゃ到底太刀打ちできず、親玉が乗り出したんだ。
親玉はいなくなっても、人数は多い。ヒューイは迷った。決して弱いわけではないが、多勢に無勢だ。歩兵程度には使えても、騎士ほどの実力はない。だからといって、弟を見捨てる事はできない。
屋敷を見上げる。その二階の窓に人の姿があった。女性や老人、子供の姿が見える中で、穏やかで武力などとは無縁な弟の懸命な姿が見えた。必死に守ろうとしているその姿を見ると、ヒューイも覚悟が決まった。
「アイリーン、すまない…」
もしかしたら、迎えに行くことは叶わないかもしれない。一言呟いて、ヒューイは草陰を出ていく。そして取り囲む一団の背後から一太刀浴びせかけた。
「ぎゃぁぁ!」
悲鳴と共に倒れた仲間を、賊は振り向いて凝視する。そしてそこにいるヒューイを見て、怒声を浴びせた。それに臆することなく、ヒューイは構える。思った以上に敵はいたが、今更そんなことどうでもいい。覚悟のうえだ。
「かかれ!」
振り上げるお粗末な剣の懐から斬りかけ、サイドからの攻撃をかわす。切り結ぶなかで、四方八方からくる攻撃の全てを防ぎきる事なんてできない。細かな傷がついているが、それに構う暇も無い。一人でも多くを殺す事が、今のヒューイにとって大切な事だった。
「一斉にかかれ!」
苛立つ声がして、一斉に剣がヒューイを目指す。もうダメだろう。全てを防ぐなんて到底できない。せめて一人でも殺そうと、ヒューイは構えた。
だが、自分と敵との間に黒い影が差した。
「ぎゃぁぁ!」
立ちはだかった人物に驚いて動きを止めると、その影の人物は賊を切り倒し、悠然としている。そして、僅かに背後のヒューイに視線を送った。
「間に合ったみたいだな。遅くなって悪い」
「あんた…は?」
赤いざんばら頭に、大きな体躯。見た目にはここを襲う賊と大差はないのだが、纏う雰囲気は違っている。少なくとも、向けられた笑みは友好的なものだ。
「シャスタ族の頭、ファルハード。シリル殿下の助っ人として、手を貸すぜ」
「殿下の?」
気の優しいあの少年が、このような賊を飼っているとは知らなかった。そういえば、レヴィンも随分あの少年にご執心のようだ。もしかして、こういった類いの者に好かれる体質なのだろうか。
そんな事を考えていると、また違う方向から悲鳴があがった。そこにはまた、違ったタイプの青年が冷たい眼差しで賊を見ている。その瞳はゾッとするものがあって、整った顔立ちゆえの冷酷さが見えた。
「同じく、シャスタ族のアルクース。言っておくけど、俺たちの主はシリル殿下じゃないよ」
「詳しい事は後だ。外は俺たちが片付けておく、あんたは屋敷の中の奴を助けてやれ。こいつら、火矢まで用意してやがるぞ」
ヒューイは慌てて踵を返して屋敷の中へと入っていく。そして二階の一室で、怯えるような瞳の村人と、安堵に気絶しそうな弟を見つけた。
「イネス!」
「兄さん…」
「よくやった、もう大丈夫だ。皆も、もう大丈夫だ! 殿下が…シリル殿下の軍が俺たちを助けてくれる!」
途端にわく歓声と、安堵の声。ヒューイはイネスを抱えて屋敷を出た。その両側を、同じくシャスタ族だと名乗る男が数人ついて安全な場所へと誘導してくれる。
だが、ヒューイは心配でならなかった。レヴィンの事だ。
「すまない、任せてもいいだろうか」
「かまわないが、どこへ?」
「…村に、レヴィンがいるんだ」
ヒューイは周囲のシャスタ族たちに村人の事を任せ、一人村へと走り出していった。
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