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第119話 天使(3)

【ヒューイ】  村で見たのは、あまりの惨状だった。 「レヴィン…」  夜の青白い月明かりの中で、鮮烈な赤。全身を血に濡らした男は、冴え冴えとした表情で立っている。目の前にはいくつもの残骸。その中には、さきほどの巨漢の姿もあった。  だがそれよりもヒューイに恐怖を与えたのは、レヴィンの腕や足に突き立てられた矢だった。服も所々破れている。背中も大きく衣服が切られていた。 「あぁ、ヒューイか。そっちは片付いたのか?」 「片付いたのかじゃない! お前、大丈夫か!」  走りより、肩と足を診る。もう自分のものか他人のものか分からない濡れ具合だった。だが、傷口から出血しているのは明らかだ。 「気にするな」 「そんなわけにいかないだろ! じっとしてろ、今抜くから」  矢を傷口から抜くと、ボタボタと血が落ちる。布を裂いて傷口にあて、締め付けるがどれだけ効果があるか。とにかくそのまま安静にと言ったのだが、レヴィンは聞こえていないかのように歩き出していく。 「どこに行く!」 「戻るんだよ。こうしている間にも、シリルに何かあったら…」  静かだった表情が途端に歪む。これほどの傷にも平然としていた男が、まるで死んでしまいそうな表情で苦しげにするのだ。  何かが、分かったように思った。他者をこれほどに惨殺しても平気な男だが、あの子に関しては偽りない。歪な男の、それは唯一正直で偽らない感情なんだ。触れる事すらも躊躇われるほどに、あの少年を愛しているのだと。 「気持ちは分かるが、そのまま行けば辿り着く前に失血死しかねないぞ! 今馬を借りてくる、それまで…」 「おーい!!」  必死にレヴィンを止めるヒューイに向かって声がかかる。そちらを見ると、先ほど助けてくれたファルハードとアルクースが馬でこちらへ向かってきていた。 「レヴィンもそこか。お前…」  ファルハードは僅かに鼻をひくつかせている。そして、睨み付けるレヴィンの側に馬を止めて降り、縛ってある傷を診てほんの少し表情を曇らせた。 「もうちょい上を縛らなきゃ、出血はとまんねぇ」 「結構派手にやったね。縛るよ」  視線だけで拒むような素振りをしたが、それよりも前にアルクースが馬上から降りて傷を縛り直していく。そうして背後にも回った彼は、不意に表情を凍らせて動けなくなった。 「どうした?」  レヴィンは苦笑しているようだった。彼が恐れたように表情を凍らせ、動きを止めた理由を知っているように。 「あぁ、ううん。服はダメだから、これ羽織っていって」  傷を手早く縛り、厚手の外套を背中に掛けるように手渡したアルクースに、レヴィンは人らしい苦い表情をする。そして小さく「有り難う」と呟いた。 「馬は俺のを使え。荒馬だが、お前なら大丈夫だろう。速さは保証する」 「助かる」  一言残し軽やかに跨がり、レヴィンはさっさと夜に消えていく。  残されたアルクースは、彼の姿が見えなくなってようやく息を深く吐いた。そしてそのまま自身を抱いて、地にへたりこんだ。 「どうした、アルクース? 変だぞ、お前」  不審げにかがみ込んで問いかけるファルハードに、アルクースは視線を向けてとても短く、その忌まわしい名を口にした。 「…天使だ」 「はぁ?」 「レヴィンは、天使だった」  その場が一瞬静まりかえり、空気が凍るようにヒューイは感じた。  短い言葉はとても如実に忌みを示す。それはとっくに、世間から消された存在のはずだ。あまりに不気味で、あまりに暗い事実を含むそれが、三人の中に広がっていく。 「天使って、全員死んだんじゃねーのかよ…」 「見たんだよ! 背中に羽の刺青があった。しかも全体だ! ナンバーも」 「羽は、何枚だったんです?」  ヒューイの問いに、アルクースは冷静になり、次には見る間に目を丸くして震えた。 「六枚…」 「最悪だ…」  六枚の羽を持つ天使の意味は、相当に重い罪と悲しみを含む。彼ら三人は夜に消えていった人物の後を、なかなか追うことができなかった。 ============================== 【シリル】  その頃、シリルも試練の時をひたすらに耐えていた。 「いい加減、首を縦に振ってもいいではありませんか。一つこの書面にサインしてくれれば、それで済むのですよ?」  ブノワは数人の男と、地下に作った秘密の部屋にシリルを連れ込み、締め上げてその背や腹を蹴りつけている。シリルが頑として、ブノワの持つ書類に署名をしないからだった。  書類にはこう書かれている。 『私、シリル・ハーディングはトイン領ブノワ・ウヴレスの娘アイリーンと婚姻を結び、正妃とすることをここに誓う』  これに署名することは、婚姻の契約を結ぶのと同じだ。それだけはできなかった。  署名すれば、この男は正妃の父。こんな男に権力を握らせる事になる。そんなこと、死んでもご免だ。  椅子に括り付けられ、足も腕も縛り上げられた状態でテーブルの前にいる。頬にも痣ができ、見えない体はより酷かった。そこは鈍い痛みを持ってシリルを苦しめたが、これに屈するほど弱くはない。シリルは眼前の男を睨み付けた。 「何度強要されても、僕はそれに署名などしない」  言うなり、強い力で頬を叩かれる。口の中に血の味が広がった。 「強情は身を滅ぼしますよ、シリル殿下。大体、うちの娘のどこが悪いと。器量もよいですぞ」 「貴方はそれでも人の親か! 自分の娘を思い人から引き離し、政略結婚などという不誠実な婚姻を結ばせようなど。彼女の人生は、貴方のものではないんだぞ!」 「何だと!」  禿げた赤ら顔を更に赤くしたブノワが、シリルを括り付けた椅子ごと蹴り倒す。床に派手な音を立てて転がったシリルは、そのまま強く蹴りつけられて何度も咳き込んだ。 「子供が、分かったような事を言うな! 大体、生意気なんだよお前達兄弟は! いいか、子供は大人の言うことに大人しく従っていればいいんだ! それを、人生だと! そんなもの、一族の繁栄のためには取るに足りないちっぽけなものだ!」  その言葉に、シリルの中で何かが切れた。切れて、妙に世界が冷静になっていく。血が上っているのにカッとはならなくて、とても静かに全てを踏みつけられる気がした。そして、とても静かにブノワを睨み上げた。 「殺すなら、殺せばいい。僕は決して、それに署名することはない」  静かに言う言葉には不思議な響きと威圧感があった。ブノワは怯む。一回り以上も子供の凄みに負けたのだ。  シリルは続ける。それはここに出てきた時にもした覚悟。そして、兄を見て感じたものだった。 「僕がここにいることは周知の事。そこで僕が不審な死を遂げれば、お前に疑いの目はゆく。元々、兄はお前が税を横領していると疑っていた。だからこそ僕をここに向かわせたんだ。この僕ですら謀れなかったお前が、兄を謀る事は不可能。僕はこの命で、お前を処刑場へと送る事ができる」 「そんな……そんなはったりを!」 「はったりかどうかは、身をもって知るがいい。兄はお前を決して許さない。僕が受けた以上の苦しみをお前に与え罪を明かすだろう。お前の首は国民全ての前に晒される」  これは揺らがない確信。ユリエルがシリルをここに向かわせた理由は、そこにもあったのだろう。  正当な王家の人間が突然死んだり姿を消したら、それを追及するのが普通。そうなれば、こんな浅はかな男の悪巧みは全て暴かれる。上手くすればそこから他も釣れるかもしれない。それを、ユリエルは考えていたのではないか。  所詮シリルも国のため、ユリエルの駒でしかない。それでも、シリルは恨む気持ちはなかった。むしろ、幸せだった。初めて必要とされたのだから。 「さぁ、どうする?」  たたみかけるようにシリルはブノワを見る。ブノワの顔が赤くなったり青くなったりしている。既にお粗末な脳みそは判断能力を欠いているだろう。  後は、愛しい人に全てを託すしかない。信じて、待つことしか…。  その時、遠くの方で悲鳴が上がった。  聞こえた騒々しさに、シリルは安堵した。逆にブノワは焦っただろう。真っ青な顔で背後を見たりシリルを見たり。そして、何を思ったか腰の剣を抜き去り、シリルを椅子ごと羽交い締めにするとその首に剣を突きつけてきた。  悲鳴が上がる。ゆらりと影のように、その人は全身を赤く染め上げている。その姿に、安堵と同時に苦しみが沸いてくる。  まるで修羅のような姿。彼をこうさせているのが自分だと思うと、どうにも胸のあたりが苦しい。  もしや怪我などしていないだろうか。それも思うと、どうにもならない無力さと罪に心が痛んだ。 「シリル」 「くるなぁぁ!」  錯乱したブノワはレヴィンを睨み付けて悲鳴のような甲高い声を上げた。そのヒステリックな声が上がるたび、シリルの首は僅かに絞められる。苦しくて咳をすると、レヴィンの整った眉がピクリと上がった。 「それ以上、おおおおっ俺に近づくな! 俺は領主だぞ! お前のような下賤の者が近づいていいような身分ではないんだぞ!」  近づくヒヤリとした死神の鎌に、ブノワは敏感に反応したのかもしれない。シリルを盾に決して離そうとはしない。  だがレヴィンの瞳は冷たく凍るばかりで、一歩ずつゆっくりとその距離をつめていく。 「くるな!」 「レヴィンさん!」  強い意志を持ってシリルはレヴィンの名を呼んだ。自分の身など顧みる必要はないと、シリルはレヴィンに伝えようとした。  だがレヴィンはゆっくりと近づくばかりで手を上げようとしない。だがその口元には、薄い笑みが浮かんでいた。 「お前は今、蜘蛛に睨まれた獲物だ。餌ごときが、ごちゃごちゃと喚くな」 「何を言っている!」  レヴィンの口元の笑みはますます深まる。そしておもむろに、手が軽く上へ上がった。 「うわぁぁ!」  シリルを捕らえていた腕が、まるで見えない糸にでも操られたように離れた。途端に床に転がったシリルは、その目の端に僅かに光るものを見つけてレヴィンを見た。 「よくも、俺のシリルにこんな酷い真似をしてくれたな。後悔はあの世でしろ!」 「まっ、まて! ひぎぃぃぃぃ!」  細いものがブノワの首を締め上げた。それは上へと引き上げられ、ブノワの首を吊る。じたばたと暴れるブノワは、何が自分を吊り上げているのか分からないだろう。  だが下から見上げるシリルには見えていた。首に絡む可視できるギリギリの、細いワイヤーの存在を。  レヴィンの腕に繋がっているそれを、彼は軽い調子で弾いた。 「!」  ぼとりと、ブノワの首が動けないシリルの前に転がった。恐怖に悲鳴すら上げられない。目を剥いた中年男の首が苦痛と恐怖に歪み、恨めしい視線をシリルに向けている。それはとても恐ろしく、目をそらしてみっともなく取り乱しそうな状況だった。 「シリル!」  はっきりと温度を感じる声が名を呼んで、意識がそれる。レヴィンは駆け寄ってきて、縛られた体を解放してくれた。そしてそのまま、強く抱きしめられた。  レヴィンの体は震えていた。かき抱くように抱かれ、離さないと力がこもる。ほんの少し苦しかったけれど、妙に安堵していた。 「馬鹿野郎! だから言っただろ、危ないから俺から離れるなって!」 「レヴィンさん…」  おずおずと背中に手を回す。外套を纏う背は、しっとりと濡れていた。そしてその手は、薄く赤く染まった。 「レヴィンさん、怪我してる!」 「大丈夫、このくらい。それより、痛くないか? 苦しいとか、ないか?」 「何を言っているんです! 貴方の方が酷いじゃないですか! それに、背中だけじゃ…」  シリルの体がゆっくりと赤く染まっていく。だから、彼が怪我をしているのだと分かった。痛いはずなのに、レヴィンはやんわりと安心したように微笑み、大事そうにシリルを抱きしめている。 「レヴィン!」 「ヒューイさん!」  部屋の戸口で声がして、シリルは助けを求めるように声を上げる。とっ、すぐにヒューイが走ってきてくれて、傷ついたレヴィンを抱え上げた。 「お前は無理をしすぎだ! いいか、少し大人しくしろ」 「なんだと!」 「レヴィンさん、お願いします!」  心配なシリルも強くたしなめる。それでようやく、レヴィンは言うことを聞いてくれるようになった。  ヒューイに抱え上げられる状態で運ばれるレヴィンの側に、シリルもついた。握った手を離さない彼はそれでも、とても安心したような顔をして、徐々に瞳を閉じていった。

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