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第120話 深く暗く
【レヴィン】
そこは暗く、重たい陰鬱な場所だった。冷たい床に布団が四組ある。天井が高く、窓もないくせにご丁寧に格子がはめられている。
ここに心はなかった。何かを思ってはいけなかった。それは無駄に苦しみを助長させるだけで、生きていけなくなる。だからまず覚えることは、思考回路を遮断し、感情を捨てる事だった。
「あいつ、帰ってこなかったな」
同室のグランが小さく呟いた。それに反応するのも億劫で蹲る。四組ある布団で眠るのは、今や三人だけになった。
「レヴィン、羽は何枚になったの?」
同室のフェリスが問いかける。虚ろながらも微笑を彼女は浮かべていた。ここにきてまだ表情があるのだから、彼女は精神的に強い。
「六枚」
抑揚のない声で言う。無表情が一番楽だし、感情らしい感情なんてもう捨てた。いや、元々持っていなかったのかもしれない。与えられる前に捨てさせられてしまった。
「私も、六枚になったの。グランも六枚だから、三人とも大天使だよ」
「そう」
それがどうした。そんなもの、何に誇る事ができる。むしろ忌むべき、悲しむべきことじゃないか。
「だからね」
彼女はなおも話を続ける。今日はよく話す。いつもなら会話らしい会話なんてない。しても辛いだけだ。捨てたはずの感情に、ほんの少し響くから。
「レヴィン、グラン、ここを壊して、一緒に出よう?」
その言葉を、今でも鮮明に覚えている。
目が覚めたのは薄暗い部屋だった。一瞬、あの日がフラッシュバックする。僅かな頭痛がして、クラクラする。それでも、今が現実だと確信できた。手を握ってくれる温かな手があるから。
「レヴィンさん、大丈夫ですか?」
「シリル…」
心配そうな顔が覗き込んでくる。汚れなど無縁な少年は、反応の薄いレヴィンを心配するように瞳を細め、顔を近づけてくる。
「大丈夫ですか? うなされていたみたいで、直ぐに起こしたんですが」
「あぁ…」
大丈夫、とは言い切れなかった。忘れていたものが血の臭いに引きずられて出てきた。途端に罪悪感に押しつぶされる。今こうしているのが不相応に思えてならなかった。
「レヴィンさん?」
「シリル」
起き上がり、戸惑っているシリルの体を抱きしめる。強く、離さないように。
「しばらく、このままで。今だけでいいから、お願い…」
みっともなく震えているだろう。罪の恐ろしさに足元をすくわれそうな予感がした。そんな手で触れる自分が許せなかった。でも、今のレヴィンを引き留めてくれるようで、この体を離すことができなかった。
察してくれたのか、哀れんだのか、シリルも背中に手を回して抱きしめてくれる。
許されるなら、ここで全ての罪を泣いて詫びたい。抱える全てを曝け出してしまいたい。
でもそれは恐ろしい。嘘をついて側にいることを選んだのだから。全てを知ったら離れて行ってしまうと、確信があったから。
どのくらいそうしていただろう。やっと精神的にも落ち着いたレヴィンは、シリルの体を離すことができた。その後は、恥ずかしく笑うしかない。どうにかこの場をやり過ごそうとぼやける思考を回転させて、レヴィンはもう一度ベッドに体を埋めた。
「ごめん、驚いた?」
「あの…はい…」
「嫌な夢を見てさ。それで、ちょっと。子供みたいかな?」
自嘲気味に笑い、レヴィンは顔を隠す。片手で目元を隠して、口元だけを見せて。これでどのくらい、嘘がつけるだろうか。
「ごめんね、シリル」
「何がですか?」
「怖い思い、したでしょ」
そう言った途端に歪んだシリルの表情がなによりの証拠だ。それでも受け入れてくれるのか、シリルは真っ直ぐに見て首を横に振った。
「そうさせたのは、僕です。貴方は、ああせざるを得なかった。だから、貴方がそんな顔をする必要はないんです」
くしゃりと歪んだ表情は、今にも泣いてしまいそうだった。恐る恐る手を伸ばして、柔らかな髪を撫でる。
謝るのはレヴィンだった。間に合わず、痛々しい傷をつけた。冷静になれずに、凄惨な光景を見せてしまった。それでも受け入れようとしてくれるこの子に、今苦しそうな顔をさせている。
「シリルは悪くないでしょ。手を下したのは俺なんだ。だから、そんな顔しないで」
「言ったじゃないですか、そうさせたのは僕だって。僕に罪がないわけがない。レヴィンさんは、少し自分を虐めすぎです」
「いや、シリル…」
「レヴィンさん!」
きつい口調で言葉を遮られた。こんなシリルは初めてかもしれない。目が怒っている。でも与えられたのは、温かく柔らかな抱擁だった。
「もう少し、他人を責めて下さい。僕を叱って。無謀な事をしたんだと。無茶をしたからだと。貴方は優しすぎます」
押し殺した声音のシリルは、ほんの少し震えていた。その体を抱きしめて、レヴィンは深く瞳を閉じた。
「好きな子には、怪我なんてさせたくない。傷ついてほしくない。優しいシリルを、俺は失いたくない。その為なら、何だってするんだよ。でも今回、俺はシリルに沢山怪我をさせて、怖い思いもさせた。自分が情けなくて、どうしようもなく腹が立つ」
「違う…」
「俺の中では、そうなの」
「僕は、謝りたかったのに」
「ごめんなさいより、怒ってもらいたい。そうじゃないなら、有り難うがいい」
薄らと涙を浮かべる少年の、頼りない瞳が揺れている。
レヴィンはその唇に触れた。やんわりと、言葉に乗せられないものを乗せて。シリルもそれに応じて瞳を閉じた。長い睫毛が違う意味で震えている。だからレヴィンは、体を押し返した。
「さっ、もう寝なきゃね。忙しくなるでしょ?」
「レヴィンさん…」
「シリル、部屋に戻ってお休み。もう、危険は無いと思うから」
シリルは何かを言おうとした。けれどそれを飲み込んだように拳を握り、やがて「おやすみなさい」と元気のない声で言って、出ていってしまった。
残されたレヴィンは窓の外を見た。綺麗な月が出ている。そして、静かに背後に立った女性へと声をかけた。
「フェリス、俺が眠ってどのくらいだ?」
「一晩。出血が多かったみたいね。ちなみに、腕と足の傷は塞がってると思うわよ」
そのもの言いに、レヴィンは薄く笑う。そして苦しそうな顔をしてみせた。
「あんたね、無理をするのもいいけれど、それだけ寿命縮めてんの自覚しなさい。このまま無理を続けたら、あんたあの子が王様になる前に墓の下よ」
「その方がいいだろ? 俺はほんの少し夢を見せてもらえればそれでいいしさ。それに、無理だよ。あの子が大変な目にあってるのに、それを無視するなんて」
自分を捨ててもシリルを優先しよう。レヴィンはそう考え、それを実行している。
フェリスは近づいて、窓の外に視線を向けるレヴィンの胸ぐらを掴み上げる。そして頬を強かに打った。小気味良い音がして、レヴィンの頬が赤くなる。それでもフェリスはレヴィンを離しはしなかった。
「バカな事を言うんじゃないの! それがどれだけ残酷な事か、あんた分かってないの? あんたにとってあの子が大切な者であるのと同じように、あの子にとってもあんたは特別になってるのよ。それが何? あんた、はなからあの子を幸せにする気はないっていうの!」
「言うなよ、それを。俺達にどれだけの時間が残ってるっていうんだ。この翼をつけられた時に、俺達の運命は奈落に向かってる。こいつに命を食われてんのに、どうして見えない未来を夢見られる。今の幸せに縋るしかないだろ」
憎らしい過去に唾を吐くように言う。背中にある六枚の羽。それは消えない過去の罪の数。決して許されないものだ。そしてこれは、モルモットの証でもある。
フェリスはいらだたしげにレヴィンをベッドに投げ捨てる。そして背を向けた。その肩が僅かに震えているように思える。でもそれがどうしてか、レヴィンには理解できなかった。
「バカ。たとえどんな事しても、過去は消えない。それでも、過去は消せなくてもね、未来は築けるのよ。あんただけが背負うものじゃないわ。あの子にも、背負わせてあげればいい」
「重すぎるでしょ」
「それでもあの子は、嬉しいはずよ。何も知らずに失うより、知って傷つく方を選ぶわ。選ばせてあげなさいよ、せめて」
本当に、そう思ってくれるだろうか。レヴィンはそうは思えなかった。シリルの暗い顔なんて見たくない。真実は残酷で、嘘は優しいのだから。
「もう、いいわ。あんたと話してても気分は晴れないもの。それより、今後の話をしましょう」
フェリスは再びレヴィンを見る。その表情は既に仕事モードだ。それを見て、レヴィンもやっと調子を取り戻すことができた。
「必要なら、あんた達の目的地に先回りするわよ」
「いや、俺達の方はもういい。どうやら離れてシャスタ族の連中もついてきてくれるらしい。フェリスは堂々と、ユリエル陛下に会いに行ってくれないか?」
「ユリエル陛下って…王様?」
ほんの少し嫌な顔をするフェリスに、レヴィンは頷く。そして素早く紙を用意して、手紙を書いて封をした。
「案内状、書いたから。これですんなり通してもらえるよ」
「私、暗殺はもう嫌よ」
「分かってる。ユリエル陛下に必要なのは暗殺じゃなくて、裏で使える情報だ」
フェリスの変装と潜入の能力は三人の仲間の中で一番だった。その力がきっと役に立つだろう。こっちは少し時間がかかりそうだから、動けないあの人は困るだろう。勿論、ルーカス関係でユリエルに危険が迫る事はないだろうと思うが。
「いいわ。なんでも、絶世の美人だって噂だしね」
「確かに綺麗な顔はしてるけど、絶世か?」
「女の噂は嘘つかないのよ」
「確かに、俺が一瞬気圧されるくらいには綺麗で、迫力あるけど」
「十分じゃない…」
微苦笑を浮かべて、フェリスは手を振って消えていく。
見送ったレヴィンは、ほんの少し遠くを見てしまう。考える事が多い。考えなければいけない事が多い。考えたくない事が多い。シリルは全てを知りたいと望むだろうか。望まれたら、言えるだろうか…。
レヴィンはそのまま、眠れない夜を過ごす事になった。
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