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第152話 聖オーキン教会

【アルクース】  タニス、ルルエ両陣営がぶつかり、タニスが奇襲を受けたその夜、アルクースは色々な意味でドキドキしながらユリエルの前にいた。 「すみません、アルクース。こんな役回りを頼んでしまって」  秀麗な顔を辛そうに歪めるユリエルを見ると少し心が痛む。そんな顔をする必要は無いと思っているのだが、優しい主は酷く辛そうだ。 「ううん、いいよ。それより早くやらないと、効果が薄くなるよ」  薄い衣服に夜風から身を守るだけの外套を纏ったアルクースは、そう言ってユリエルに背を向けた。  グッと、覚悟を決めたような地をならす音がしたその直後、「いきます」という声の直後に背に鋭い痛みが走り、アルクースは数歩たたらを踏んだ。トクットクッと心臓がなり、血が流れ落ちて体を濡らすのを感じる。浅く息を吐き出すと、背後の人は駆け寄って触れようとした。  それを、アルクースは手で制した。 「平気! はっ、ちょっと痛かったけど、流石だよ陛下。手加減絶妙…」  痛みは徐々に引けていく。血も最初こそ多量に出ただろうが、今はそれほどではなくなった。  ユリエルの瞳が揺れている。青い顔をしたユリエルを見て、アルクースは笑った。 「それじゃ、お仕事してくるね」  そう言うと、歩き出していった。  夜闇が薄らと明ける頃、アルクースは一人平原を渡りきってとある教会へと辿り着いた。背を濡らした血は乾いて張り付いてゴワゴワと感じるし、それでも僅かにまだ流れていくのも感じる。足がフラフラして、意識が揺らぎ始めた。  そうして門扉の人を見た途端に、本当に気が抜けて倒れてしまった。冷や汗が出る。 「おい、どうした!」 「大丈夫か!」  門を守る二人の衛兵が駆け寄ってきて、アルクースを見て血相を変える。一人がすぐに中へと駆け込んでいき、もう一人がアルクースの濡れた背を支えるようにして抱き起こした。 「どうした!」 「俺は、シャスタのアルクースと、申します…。お願いです、助けてください…」  涙ながらに訴え出ると、衛兵がハッと息を呑む。それを感じて、自分の名が衛兵にまで伝わっている事を知ったアルクースは、そのままゆるく気を失った。  目が覚めた時、柔らかなベッドの中にいた。見下ろしている清純な様子のシスターがゆったりと微笑み、アルクースの頭を撫でた。 「平気ですか、アルクースさん」 「…もしかして、フェリス?」 「今はこの姿ですのよ」  そう、貞淑な女性の笑みを浮かべる彼女のまったく違う顔に驚きながらも、アルクースは体を支配するけだるさに勝てずに沈み込んだ。 「傷は治療いたしました。少し縫いはしましたが、直ぐによくなりますわよ」 「縫ったんだ…」  確かに、後遺症の残らない場所、でも派手に被害者と分かる傷をと選んで切られたはずだから、そのくらい深いのも覚悟済みだったけれど。思っても、やっぱりまだ痛む。少なくとも、体を起き上がらせるのが億劫ではあった。 「ちなみに、この部屋の盗聴穴は塞いでおきましたわ」 「ははっ、仕事早いな」 「後で司教様がお話をしたいと。とても心を痛めておりましたわ」  目的の司教が来る。これにアルクースはまず安心した。どうやら尋ねていったり、近づくのに苦労する事はなさそうだった。 「それと、こちらの指揮を執っているリチャード将軍も顔を見たいと言っていました。どうか、お気をつけを」  そう言いながら布団の中に小ぶりのダガーを入れてくるあたり、シスターにあらずだ。苦笑したアルクースは、聞いておくべき話だけを詳しく聞く事にした。 「司教さんって、どんな人?」 「とてもお優しく、慈悲深い方ですわ。そして、血が流れる事を憂いています。やはり相手が軍人でも、この場で血が流れる事は避けるのがよろしいかと」 「うーん、難しいよね」  とはいえ、ユリエルは最初からこの教会の敷地内で血が流れる事を望んでいない。宗教家がそうした事を嫌うのはどこの世界も同じ。血濡れた教皇アンブローズならば知らないが、真に神を敬う者は自国、他国を問わず人の死を憂えるものだ。 「やっぱり、初期案だね。フェリス、平気?」 「準備は出来ておりますわ。アルクースさんこそ、リチャード将軍にご注意を。相当、嫉妬深い子供の様な方ですわ」 「うわぁ、面倒。でもごめん、もう少し寝てもいい? けっこうクラクラする」 「出血が多かったですもの。こちらの薬をどうぞ。造血作用がありますわ」  そう言って渡されたものを飲み込み、水を飲み込む。そして再びゆるゆると、アルクースは眠りに落ちていった。  穏やかに再び目が覚めると、フェリスが尋ねてきて、改めて人が紹介された。  リチャードはなるほどと言える綺麗な顔立ちの青年だった。薄い色合いの茶色の髪に、人の良い柔らかな緑色の瞳をしている。  だがアルクースには分かった。彼の内心は嫉妬の嵐が吹き荒れている。時折、アルクースを見る顔が引きつって見えた。  一方のハウエルは穏やかな白髪混じりの、五十代後半といった人物だった。全身から穏やかさと優しさが滲み出ている。だが、頑固そうだ。 「アルクース殿、私はこの教会に駐留する聖教騎士団のリチャードと申します。貴殿の事はバートラム様より伺っております。辛い思いをなさったと」 「リチャード様…。優しいお言葉、感謝いたします」  狐と狸の化かし合い。そんな事を思いながらもアルクースは悲壮感を漂わせる。悲劇のヒロインを演じるのが最近楽しくなってきた。案外性に合っているかもしれない。 「何故このような事になったのか、お辛いとは思いますが話していただけませんか」 「はい。昨日、予期せぬ奇襲を受けたタニス王は、どこからか情報が漏れた事を勘ぐり、怪しいと俺を責めたのです。他の者は身元も確かな腹心の部下、裏切りはないと。そうして責められ、耐えきれずに逃げ出した所を背中から…」  目元を隠し涙に震えるアルクースを、ハウエルは気の毒そうに見つめて歩み寄り、そっと手を握ってくれる。穏やかその温もりは心安らぐ気がするが、同時に嘘をつく醜さも知らされるようでいたたまれなくなった。 「夜陰に紛れ、どうにか逃げ出し、クララス隊長より教えられたこの教会だけを目指して来たのです」 「そうでしたか…」  お気の毒に。という様子を滲ませるリチャードだが、アルクースの事を信じてはいない。  いや、嘘を感じてはいなくても目障りなのだろう。衛兵にまでアルクースの存在を知らしめ、もしもの時は保護するようにと通達されていた事はフェリスから教えられた。バートラムの関心が移った。そう感じるには十分なはずだ。 「幸いこの教会には私の軍が駐留しております。ここは前線にあるため、教会と言えど砦としての機能も果たしております。門を開けないかぎり、敵の侵入など不可能です」 「有り難うございます。安心いたしました」  ヨロヨロと体を深く折り曲げ、丁寧に礼をするアルクースを、嫉妬の目では見ても敵愾心を向ける事はできないのだろうリチャードがなんとも言えない顔で退室していく。  残されたのはアルクースとハウエルのみだった。 「遅れましたな、アルクースさん。私はこの教会の司教をしております、ハウエルと申します」 「クララス隊長より、お名前は伺っておりました。若い頃にお世話になったと」 「あれも荒れておりましてな。ここ数年、会ってはおりませんが、元気でやっていましたか?」 「はい、息災にしておりました。俺の身の上を聞いてくれ、ルルエ聖教会へ助けを求める事を勧めて下さったのもクララス隊長です。自分も助けられた、俺の事も助けてくれるだろうと」  伝えれば、まるで教え子を思う教師のように、柔らかく穏やかな笑みをハウエルは見せる。それと同時に、アルクースを案じてもくれた。 「タニス国王は、貴方にこのような非道を行う暴君なのですね」 「…捕虜の身の上は、どこへ転んでもあまり良くはなりません。俺一人の犠牲で一族の暮らしを保証してもらえただけでも良心的だと、考えておりました」  悪し様にユリエルの事を思ってもらいたくない。だがまだ、ユリエルに味方をするような発言はしたくない。ギリギリのラインがここだろう。アルクースの思い悩む姿は、ハウエルにも伝わった。 「憎い人では無いのですか?」 「育ての親を殺され、このような非道をされているのです、憎くて仕方のない相手ではあります。ですが、約束を反故にされた事はありません。俺が大人しく従えば、一族は心安らかに暮らしているのです」  ハウエルはとても複雑そうな顔をしている。そしてそっと、アルクースに穏やかに頷いた。 「安心なさい、アルクースさん。誠実でも、貴方に行ったこれらの非情な振る舞いは許されません。必ず、何かしらの報いがあるでしょう。それに、貴方の事は私が守ります。どうか、心安らかにお過ごしください」 「温かなお言葉、有り難うございます」  心からの感謝と…謝罪を。ユリエルはそんな人ではない、部下の小さな傷にも悲しみ、自らの傷を厭わない人だ。嘘をついてごめんなさい。その気持ちで一杯になる、そんな感覚にアルクースの心は痛んでいた。 ============================== 【クレメンス】  カラスが一羽、こちらを目指して飛んでくる。足に銀の筒を付けたそのカラスは、クレメンスを見つけるとその側に降下した。 「ご苦労だったね」  言って筒を外してやり、代わりに餌を与える。カラスというのはどこにでもいて、そして賢い。餌をもらえる行動をしっかりと覚えてくれて、尚且つ人の顔も認識している。もしかしたら言葉も分かっているかもしれない。だからクレメンスはこのカラスの前で決して、侮辱の言葉を言わない。 「しばらく待っていてくれ」  筒の中に入っていた手紙を手に、クレメンスは作戦用のテントへと入って行った。  テントの中にはユリエルが、落ち着かない様子でいた。側にはグリフィスも控えている。 「クレメンス、知らせですか?」 「えぇ」  ソワソワとした様子のユリエルを前にクレメンスは手紙を開き、そしてほっと瞳を緩めた。 「アルクースは無事に教会に辿り着き、治療をされたようです。命に別状もなく、意識もあり、食事も取っていると」  その一言に優しい主がどれほど安堵の息を吐くのか、クレメンスは知っている。この顔を見るからこそ、この主に仕えて良かったのだと思い知る。非情な選択もこの人の為ならと思わせる、そんな部下タラシな主だ。 「聖オーキン教会より使者が出たようです。バートラムの屋敷に向かっているもよう。アルクースを保護した旨を知らせる為でしょう」 「では、次の動きです。クレメンス、頼みますよ」 「お任せを」  丁寧に礼を取ったクレメンスの口元には笑みがある。国内の大捕物は案外手応えがなかった。次はもう少し楽しませてもらえそうだ。そう思うと、笑みが浮かぶのだ。 「クレメンス」 「グリフィス」  呼び止められて振り向けば、心配性の友人がこちらへと近づいてくる。分かっている、心配なのは。だが今回は時間との勝負。今行かなければ全ての苦労が水泡に帰す。 「気を付けていけ」 「分かっている。グリフィス、お前も頼むぞ」 「あぁ」  短いやりとりは、少し拍子抜けだ。だがあの男も事態を分かっている。そして、クレメンスを信じてくれるのだろう。  出遅れてはならない。クレメンスは急ぎ軍を仕立て始めた。

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