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第9話

「今夜は、どうもありがとうございました」  店から出た敏樹は、南雲に向かって頭を下げた。 「いやいや、俺はなんにもしてないだろ」  南雲は笑って、夜道で煙草に火をつけた。 「いえ、ひとりで色々考えるよりは、楽になりました」    それは敏樹の本音だった。  もしも樋口が結婚したら? なんて事は考えたくなかったが。  考えたくない事でも、頭にはよぎる。  それを一人きりでずっと心の中に抱え込むのは苦しかったし。  樋口から貰った「自分が一緒に居たいのはきみひとり」という言葉も信じられなくなっていく。 「ふうん。でも、もうすぐきみは夜勤を辞めちゃうんだろ?」  煙草を咥えた南雲は、質問に頷いた敏樹の胸元を軽く叩くと。 「もしもまた楽になりたかったら、連絡してよ。軽く呑んで喋り合う事しか出来ないけど」  いつもと同じ軽い調子で誘い、上目遣いで微笑む。 「ありがとう……ございます」  このひとは適当に見せて、しっかり助けようとしてくれるんだ。そんな南雲の姿に、敏樹もほっとして笑った。 「……もしもし」  南雲と別れ、自宅に戻った敏樹は、無意識に樋口へと電話を掛けていた。 「えっと……敏樹、くん?」  戸惑いの声が返ってきた。それはそうだろう。ふたりはいつもメールしかせず。そのメールも、逢う日時を決める業務的な文章だけなのに。 「すいません、突然に。現在(いま)、大丈夫ですか?」 「あ、あぁ……平気だけど」  なにかあったのか? どうかしたのか? そんな続きを言い難いのか、樋口の言葉が途切れた。 「なんとなく、樋口さんの声が聴きたくなって。それだけです」  明るい声で敏樹は言った。半分は本心だ。南雲と沖の話から尋ねたい事もあったが。それはしない、と心に決めていた。 「あぁ、そうなんだ……でも、いまから会うのはちょっと難しい。すまないね」 「いえ、それはこの前に聞きました。怪我を大事にしてほしいし。ちょっと話すだけでいいんです」  これも半分だけ本心だった。心の底では逢いたかったが。この複雑な感情を抱えたまま逢うと、なんだか変な表情(かお)を見せそうで。  いつも見張っている事なんて出来ないし、そもそもしたくない。敏樹と離れていても、樋口の言葉を信じられるようになりたい。樋口にも敏樹の想いを信じてほしいし。  そんな事をぼんやりと考えながら、敏樹は樋口となんともない会話を交わし続けた。

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