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MRの本分
「うちの人事は何を考えてるの? と思ったけど、なんとかやっているみたいで安心したよ」
メルト製薬の医務室勤務のアルファ・オメガ専門医、雪屋は朔耶を一通り診て安堵の表情を浮かべた。
異動して約一ヶ月。今日は本社の医務室で定期検診だった。メルト製薬の社員でアルファとオメガは福利厚生の一環で月一回、無料の定期検診を指定の医療機関で受けられることになっている。アルファの社員なんてほとんど居ないはずだから、この福利厚生の恩恵にあずかっているのはもっぱらオメガのみだろうと思う。入社以来ずっと本社勤務だった朔耶は医務室で受診することができた。
朔耶にとってみれば、目の前のこの雪屋が主治医になる。入社からだから、四、五年の付き合いになる。彼自身はベータであると聞いている。
「僕もそう思いましたよ。いきなりMRって……。しかも、担当している先生も結構強烈で……」
朔耶は和泉を思い起こす。あれから何度か、朔耶は和泉から試されるような依頼を受けた。長田が「真面目で厳しくて素早いレスポンスを求める」と評していたのを身をもって体感した。求めるデータの精度に厳しく、しかもスピーディな対応を求められる。話を聞いた時点で当たりをつけて置く必要があった。しかし、どんな要望に対しても、失望させるような対応をしたつもりはなかった。しかし、かなり心理的肉体的負担にはなっている。
「無理してるでしょ」
「……はい」
雪屋の質問に、強がることはしない。自分の限界をこの主治医は知っているのだから。
「でも、とりあえず、信頼を得ないことにはどうにもならなくて」
朔耶の呟きに、真面目だからねえ、と嘆息する。結局、何を言っても朔耶は己の信じた道を行くということを知っているのだ。
「……ほどほどにね。新堂くんはわりとフェロモンが安定しているけど、バランス崩れたりすると変わったりするし。抑制剤はいつものエムにしておくね」
「……ありがとうございます」
「何かあったら、すぐに連絡してね。無理もほどほどに」
朔耶は苦笑する。
「そんなに心配してくださるの、先生くらいですよ」
出し抜けにスーツのなかに収めているスマホがメッセージの着信を告げた。
タップすると、相手は和泉だ。
誠心医科大学病院に通い始めて数日で、朔耶は和泉の携帯番号をゲットできた。営業所の同僚からは猛者扱いされたが、聞けばすんなりと教えてくれたためだ。
しかし、最近ではもっぱら和泉が朔耶を呼びだすために使われている。
基本的に和泉が忙しすぎて、捕まらないのだ。
「忙しいことだねえ」
和泉のメッセージの即返信する朔耶の姿を見て、雪屋はそうため息を吐いた。
本社からそのまま誠心医科大学附属病院に向かった朔耶が通されたのはアルファ・オメガ科の診察室だった。珍しい。ただ、病院のオメガ科というのは、朔耶にとって少し苦手な場所だ。というのも、発情したオメガも来院するため、フェロモンを感じてしまうこともあるからだ。アルファ・オメガ科の医師にベータが多いのも、なんとなく分かる。彼らはこのオメガの香りをほとんど感知しないという。
「PTSDを既往している患者さんに合う抑制剤を探している。御社のエムとラスティスの併用を試したんだけど、副作用が酷くてね。抗不安薬との兼ね合いを考えると、漢方を併用しつつ違う作用機序の薬剤がいいかもしれないと考えている。そろそろ周期を考えると発情期が来そうだから、漢方との併用データを明日までに用意してほしい」
和泉は医局に戻る暇もないようだった。朔耶が、患者用の椅子に座ると、挨拶もなく、開口一番そのように言われた。
朔耶は和泉に、手短に詳細を聞き出す。
患者の詳細な既往歴、抗不安薬の種類、試そうと考えている漢方薬、そして次回の周期。
ものの数分の問答を、ノートにメモを取ると一礼した。
「承知いたしました。明日にもお持ちいたします」
「頼むよ」
いつもはそこで面談は終了になるのだが、珍しく和泉が話しかけてきた。
「優秀な人材だと、自信ありげに長田所長が言っていたけど、本当だったな」
「……とんでもございません」
「こういうリズム感のある会話を出来る人は、なかなか居ないものだよ」
どうもいつの間にか、和泉からはそれなりに評価されていたようで、朔耶は少し嬉しくなる。
「先生にそのように言っていただいて、本当に恐縮です」
「これからも、いろいろ頼みたいから。よろしくな、新堂くん」
これまで和泉はずっと朔耶のことを名前ではなく、社名で「メルトさん」と呼んでいた。
初めて、自分の名を呼ばれて、朔耶は浮かれるほどに嬉しくなった。
和泉から要求されたデータをまとめようと、営業所に戻ってきてフェロモン抑制剤の膨大な臨床データをカバーするデータベースを探り始めた朔耶である。しかし、なかなか見つからない。
アルファ・オメガ学会の学会誌に掲載された論文をクロス検索をかけても出てこないし、東洋医学会の文献データベースを検索しても、ひっかからなかった。
いよいよ焦ってくる。
もともと、かなり限定的なケースであるため、さほど多くの情報があるとは思っていなかった。それにしても、まったく引っかからないとは。自分の検索方法がよくないのだろうか。思いあまって、本社学術の鈴村にも連絡を入れたが、もう皆退社しているのだろう、誰も応答してくれなかった。
どうしよう。
「ずいぶん遅くまで残っているが大丈夫か?」
残業を終えた長田が帰り際に朔耶に声をかけた。
朔耶は手短に現状を説明する。長田もうーんと少し悩んだ。
「うちのデータベースでエビデンスレベルを下げるのはどうだろう」
それは勿論、朔耶も考えたことだ。
「でも、そうなると論文自体の信憑性が……」
医学論文で最も信頼性が高いものは、大規模な臨床試験データだ。きちんとした設計がなされた試験で被験者の数が多ければ信頼性は高いとされる。
やはりドクターにはそのようなものをデータを渡したいと思う。
しかし、長田はそんな朔耶の考えに疑問を差し込む。
「だけどさ、ようは和泉先生がどんな情報を求めているかなんだよ。彼のことだから、おそらく論文執筆の材料ではなく、患者さんの処方の参考にしたいんだろ。他に、どんなことを言っていた?」
朔耶はメモを取り出す。
「えっと……。PTSDが既往歴があると……」
「おお。あとは?」
「エムとラスティスは副作用が強かったということも……」
そうか、と長田は頷く。いくつかの絞り込みと検索除外ワードをかけてみると、十数本の論文が検出された。
「これの中から、いくつか持っていけばいいと思うぞ」
「すみません」
「あのさ、学術も営業も、医薬品の情報提供には変わりは無いがな、MRはドクターの狙いがどこにあるのか、そういうことを考えて動けばいいんだ。そうすれば相手は必ず分かってくれる」
じゃあ、無理するなよ、と長田が手を振って帰って行った。
長田のアドバイスで検出された論文は、数百人規模の大規模なデータではなく、数人の症例報告といった具合のものばかりだった。このなかで、和泉が求めている論文はどのようなものなのだろう。朔耶はそれらをプリントアウトして読み込み始めた。
結局、論文を読み込んで、帰るチャンスを逃した朔耶は、営業所に泊まり込んでしまった。
「和泉先生、おはようございます」
「君か……」
「昨日お約束しました文献をお持ちしました」
「見つかったのか」
「はい。ただ、なかなかエビデンスレベルの高い文献は見つかりませんでした」
「だよね。僕も探してみたのだけど、ないんだよ」
朔耶に頼む前にすでに探していたようだ。諦めなくて良かったと思った。
「ほとんど症例報告のようなものばかりですが、先生が仰っておられた患者さんのファクトを考慮し、いくつかお持ちしました」
「へえ」
和泉に書類を渡す。彼は封筒を開けて、論文に軽く目を通す。
「よく調べたね。……うん」
和泉の言葉が柔らかい。粘った甲斐があるというものだった。
「これは参考になりそうだ」
「僕も読んでみて勉強になりました。昔の薬剤が一周回って効くかもしれないって、その発想はありませんでした」
「メルトさんが一番最初に出したフェロモン抑制剤『ラスト』が、漢方製剤との併用により相乗効果が期待できるっていう視点は興味深いね」
「作用機序がシンプルである分、併用しやすいのかもしれません」
「問題は漢方とラストのバランス……要は投与量、なのかもしれないな」
和泉は、論文を読み込みながら、脚を組んだ。眼が真剣だ。
「おそらく、数人の症例報告なので、社内でも注目されていなかったのでしょうが……」
「ラストなんてもうジェネリックも出ているしね。メルトさん的にはさほど注目には値しないかもしれないが、処方する側としては興味深い」
和泉の満足げな言葉に朔耶は安堵した。
長田のアドバイスのおかげだ。自分は論文と臨床データの信憑性ばかりが気になっていたが、求められている情報はそのようなものではなかったのだと、朔耶は実感した。
「……その、件の患者さん、番のアルファに捨てられて、かなり精神的に不安定なんだ」
和泉の言葉に朔耶は驚く。
アルファとオメガの番の契約は、オメガの発情時にアルファが項を噛むことで成立するとされる。それにより、肉体的な結びつきが強くなり、アルファとオメガは互いのフェルモンしか反応しなくなる。結婚などの契約などよりもずっと深い結びつきだ。番契約はアルファが一方的に反故できるというが、捨てられたオメガは精神的にも肉体的にも大きなダメージを負う。
「正直、番に捨てられたオメガを診るのは痛々しくて、しんどいね」
ベータである和泉がそのような感情を抱いていることが意外だった。
「先生はお優しいですね」
オメガの患者は辛いかもしれないが、こんなドクターに診てもらえるのは幸せなのかもしれないと純粋に思った。
「相手のアルファが『運命』に出会ってしまったそうだよ」
「運命なんて……」
運命の番。
出会ったとたんに魂の片割れのごとく、ビビビとくるらしい。なにがあっても離れられない、番契約よりも強い結びつき。いわゆる宿命の関係なのだという。
よく話には聞くし、ドラマや小説の題材などにもなっているが、朔耶は実際にそんなものを見たことはない。
うさんくさそうなものを見る顔をしてるね、と和泉に笑われる。
「すみません。いまいち分からなくて」
だよねえ、と和泉も頷く。
「でも、出会った本人がそう感じてしまったら、運命になるのかもしれないね。もともとほとんどのアルファとオメガは、そんなものには遭遇しないのだろうから」
「運命なんて、どうやって分かるのでしょうね」
「さあね。我々ベータには分からない世界だな」
和泉の言葉に朔耶も頷くほかなかった。
「あれ」
気付けば和泉が朔耶を凝視している。
「新堂くん。少し体調悪い?」
朔耶の顔を覗き込んできた。
「え、あの大丈夫です」
思わず少し引き下がる。
「この論文を選ぶのに、時間がかかったんだろ」
ドンピシャで当てられ、何も言えなくなる。その通りだ、殆ど寝ていない。
和泉は表情を和らげる。
「分かりやすいな、君は。この部屋で少し休んでいくといい」
あまりの申し出に驚く。
「え! そんなわけには!!」
「問題ないぞ。ここはわたしのオフィスだし。誰も来ない」
「い……いや、そういう問題では」
慌てる朔耶に和泉は苦笑する。
「だって、顔色が悪い」
そう言って朔耶の頬に触れる。
なんだろう、なんでこんなに動悸が激しくなるのか。
その手にから逃れるように、朔耶はとっさに身体を捩る。
「あの! 先生、僕はベータですから!」
そうとっさに言ってしまった。
すると和泉は不思議そうな表情を浮かべた。
「何言ってる。オレは医者なんだから、そんなの関係ないだろ」
それはそうだとハッとした。なぜこんなに慌てているのか、朔耶自身が理解できない。
仕方なく抵抗を諦める。
和泉は朔耶の額に手を当てた。
「少し熱があるようだ。ここで少し休んで、今日は帰って休め」
車は運転できそうか? と和泉は真剣に訊ねてくる。心臓がばくばく言っているが、うんうんと頷いた。その手を早く外して欲しいのだ。
「そうか。こっちは明日も来てもらわないと困るんだから、ちゃんと休んで治せよ」
このドクターは、他のMRにもこんなに気安く触るのだろうか。
そう言って和泉が朔耶の頬に再び触れた。
男に触られてドギマギするという、原因不明の動悸が止まらない。
が、それでもその手はとても暖かかった。
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