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番の本質(和泉視点)(1)

 誠心医科大学病院のアルファ・オメガ科の医師、和泉暁の朝は早い。大抵は朝七時、早いときには六時半にはオフィスの扉を開くのが日課だ。そんな時間に面会を求めてくる製薬会社の営業、MRも少なく、早朝は仕事が捗るためだ。  しかしここ半年ほど、その静寂は覆されている。  今朝も、和泉が朝六時半に出勤すると、その廊下で待っているスーツ姿の男がいる。アルファ・オメガ領域の抑制剤トップメーカー、メルト製薬のMR、新堂朔耶だ。 「おはようございます」  彼は朗らかに笑うが、昨日も夜遅くまで調べ物をしたのだろう、目が腫れぼったい。昨日は面倒なデータ収集など頼まなかったはずだが、と思いつつ、その頬に触れようとして、自制する。 「おはよう」  オフィスの鍵をあけ、扉を開く。そして、自分が入るより先に、朔耶を招き入れる。 「今日も早いな。さあ、どうぞ」  これが、今の日常だ。 「来月から弊社では和泉先生専属のMRを手配させていただきます」  和泉が、食えない男だと内心思っているメルト製薬の東京中央営業所長、長田からそのような話を聞いたのは今年の二月の終わりのことだった。 「……ずいぶん、私も偉く扱って頂けるようになったもんだな」  そう反応すると、長田からは「いやー、先生の要求に十分にお応えするには、正直専属を付けるしかないでしょう」と苦笑された。  たしかに処方方針を決めるために、リーディングカンパニーのメルト製薬のMRにはかなり過酷な資料を要求することもままある。それになかなか応えられないMRもおり、長年の付き合いの長田にも、最初は手加減をしてやってほしいと懇願された。しかし、患者の命を預かっている以上、妥協はできないのが本音なのだ。  この三月から、「和泉付」として配属された新堂朔耶というこの青年は、初日からよく応えてくれた。  最初は気に障る存在だった。初めて見たときに、魂というか本能を揺さぶられるような気持ちに駆られ、早く離れたくて「その新人、使えるのか」と柄にもない感情的な暴言を吐いた。しかし、大人しそうな顔をして、振られた喧嘩は買う主義のようで、きっと無理だろうと思ったデータを、翌日の朝にはきっちりそろえて持ってきた。自身が薬剤師の資格を持ち、前職場が学術だったこともあり、バックグラウンドを活かしたデータ収集の嗅覚だけではなく、選別、処理、作成といった能力にも長けているようだった。  気付けば和泉はこの青年を手放すことができなくなっていた。  一方で、この青年から芳しい香りを感じていた。  彼はどうやらオメガらしかった。朔耶もオメガであることを偽り、ベータとしてこの病院に出入りしていた。  和泉自身、事情があって本来の第二の性であるアルファをベータと偽って毎日を送っている。それがヒート抑制剤を常用していても、影響を受けるのだ。  そんな朔耶の偽りが露見したのが三ヶ月程前に札幌で開催された、アルファ・オメガ学会での出来事だ。抑制剤の効き目がなくなり、会場で突如発情期を起こした朔耶を、和泉が介抱し、あっさりそのような関係になってしまった。和泉自身、朔耶のことを気に掛けていて、不意の発情期が始まった際には、すべてを引き受けると心に決めていた。なのに、当の朔耶はもっと肝が据わっていた。  番にしてほしいと請われたものの、断腸の思いだった和泉の拒絶を、誠実な言葉とともに、あっさり乗り越えてきてしまった。 「あなたが生きるために失った機能であるのならば……そしてそれ故に苦しむのなら、僕はそれを半分背負いたい」  これまでアルファという性でありながら不能という、ある種の矛盾を抱えた自分自身を、受け入れられなかったのだと、そのときに初めて和泉は気がついた。  彼は、そんな心をも癒やしてくれたのだ。 「ふたりで居れば、苦しみもいずれ和らぐ」  本当にそうなるのかは分からない。でも、彼が自分を受け入れてくれた事実が、とてつもなく嬉しくて、涙が出るほどに嬉しくて。  救われた気がした。  彼を大事にしたい、とそう思った。  しかし、前回の発情期では、項を噛んで番にすることはできなかった。    その覚悟がつかなかった。 「本日は、昨晩に厚生労働省から発出された安全性情報をお持ちしました」  白衣を纏った和泉に、朔耶はファイルを手渡した。 「弊社の発情抑制剤エムと一部の降圧剤を併用した際に原因不明の肝機能障害が出現されるという報告がここ半年で三件ありましたので、そのような対応となりました」  MRの仕事とは、医師に処方を勧め、そのための資料を集めるだけではない。このような副作用情報の提供も大きな仕事の一つだ。彼はこのようなネガティブ情報の提供にも手を抜かない。 「うちの患者さんでも降圧剤と併用されている方はいるから、精査して経過観察が必要な場合は手配しよう」 「……ありがとうございます」  それにしても、と和泉は思う。 「これ、厚労省から出たの昨晩だよね。よくまあ間に合ったね」  朔耶から手渡されたファイルをめくる。  安全性情報は製薬会社と医療機関から報告された副作用症例を詳細にまとめた冊子だ。必要不可欠な内容は記載されているものの、多忙な医療関係者に読み込む時間などないため、医師や薬剤師が分かりやすいよう、製薬会社では周知のためにサマリーを作ったりしている。必要があれば、患者周知用のリーフレットだって作る。今回は医療関係者が掴みやすいように簡略版を作ってきた。 「あ、それは学術の人間と……」 「また、夜遅くまで手伝ったんだ?」  そう突っ込むと、朔耶は「すみません…」と俯いた。身体の状況を顧みず、仕事をする傾向があり、パートナーとしては気が気では無いのだが。 「降圧剤を使っている患者さんはそもそも数が多いし、うちにはかかっていなくて他科だけにかかっているようなオメガの患者さんにも降圧剤を使っている方はいるだろうから、他の先生にも周知が必要だな。こういう資料は助かるよ」  オメガのフェロモン抑制剤は番が出来る前のオメガが服用すると思われがちだが、番が出来たあと、出産を望まない場合の発情期の軽減や、番を失ったり、そしてさほど多くはないのだろうが、番を作らないオメガは生殖年齢が終わるまで服用する。年齢と共に様々な薬剤と併用されることが多い。  ありがとうございます、と朔耶は頷いた。 「そうだ、今日は何時の予約を入れていたっけ?」  今日の午前の外来担当は和泉である。今日は朔耶が診療予約を入れていることを知っていた。三ヶ月前、朔耶と発情期を共に過ごした後、彼の抑制剤の処方元を和泉に変更したのだ。朔耶はかなり抵抗したが、ほぼ毎日会っているからフェロモン抑制剤の処方に融通が効く、と説得し、無理矢理変更させた。  朔耶とはすでに話し合い、次の発情期は一緒に過ごすと決めている。そのため次の発情期に影響が出ないよう、日常生活には影響が出ないように細心の注意を払った処方をしてきたし、実際に、きめ細かいフェロモン抑制剤の処方が奏功し、彼の体調はその後順調だった。  興味深かったのは、初めて朔耶がこの診察室にやってきたときに携えてきた紹介状だ。  メルト製薬本社の医務室の雪屋医師からのものだったが、打ち出された経過報告といった事務的な内容の他に、手書きの手紙が添えられていた。それが、今後とも末永くよろしくお願いしたいといった、娘を嫁に出す親のような内容だったので思わず笑ってしまった。  朔耶自身が、雪屋に対して今度の主治医と番う予定だと話した結果なのだろう。愛するパートナーは、これまでの主治医にかなり可愛がられていたようだった。 「予約は十一時半です。なので、一度営業所に戻って事務作業を終えてから、伺います」  朔耶はどこか恥ずかしそうにそう答えた。  早朝の仕事を終え、外来に向かう前に、病棟のナースから連絡をもらった。 「特別室の日下さんが、今朝から発情期に入ったそうです」  その知らせに頷いた。   外来の前に様子を見ておく必要があるだろうと、病棟に足を向けた。  アルファ・オメガ科の特別室というのは、スタッフステーションの目の前でありICUの隣という、かなり特異な場所に設置されている。トイレと浴室が併設されている個室で、他の病棟で使われている特別室とは異なる用途で使用される。特徴的なのが、内側から施錠できることで、外から開ける鍵は主治医とスタッフステーションに厳重に保管されている二本だけということ。そして、防音仕様になっていること。  この特別室は、発情期に入ったオメガが収容される病室なのだ。  昨日からこの特別室に入院しているのが、和泉が担当する日下弥生というオメガの男性だ。昨日の外来で発情期が近いからとそのまま入院することになった。もちろん、オメガにとって発情期は生理現象であるのだが、この青年をひとりで発情期を越えさせるのが危険だと和泉が判断したためだ。  昨日から預かっている鍵を使って、病室のドアを開ける。病棟のナースには医療用のワゴンを持ってくるように指示していた。  室内からはむせかえるほどの香りが漂う。弥生のフェロモンだ。  朝、まだカーテンは閉じられていて、朝日が透けて入ってきている。カーテンを開けるかどうか迷ったが、そのままにした。 「弥生くん」  ベッドの中には、弥生が掛け布団にくるまっていた。院内は適切な室温と湿度に保たれているとはいえ真夏だ。暑いに違いないのに、彼は和泉の問いかけに応えなかった。  和泉は弥生がくるまっている掛け布団に手を添える。びくんと震えた気がした。意識があるみたいだ。 「顔を見せて」  そう請うと、布団のなかから潤んだ瞳が覗いた。 「い……和泉……せんせ?」  和泉は頷いた。大丈夫だから、診せて、と請うた。  医療用ワゴンを持ってきたナースが手際よくベッドの回りに設置されたカーテンをひく。広めの特別室のなかに閉鎖された空間ができあがる。そうして弥生は顔を見せてくれた。 「辛かったな」  和泉がそう言うと、弥生の目から大粒の涙があふれたが、首は横に振られた。 「……平気です……」  宥めながら、掛け布団を少しずつ剥いでいく。自分のフェロモンを押さえたかったのか、備え付けの毛布を身体に巻き付け、さらに掛け布団をも巻き付けていた。フェロモンが漏れるのを恐れる、番を持たないオメガの防衛的な行動だ。 「ここは安全だ。君が鍵を開けなければ、私しか鍵を持っていないから、誰も入ってこない」  そう言って彼の鎧を剥いでいった。彼のパジャマは汗とフェロモンの香りでむせかえるほどだ。 「あとでナースに汗を拭いてもらおうな」  そう言って、彼をベッドに仰向けに寝かせようとしたが、弥生が和泉に縋りついてきた。 「こうすけ……」  ぶわりと弥生のフェロモンが和泉を覆う。昨日まで抑制剤でコントロールできていたというのに……と思うが、自分のわずかなアルファとしてのフェロモンに反応して、弥生もだれかと間違えているようだ。  朔耶と出会うまではベータとして偽って生きるために完璧に押さえつけていたアルファとしての匂い。朔耶と出会ってから、時々自分でも感じる。  自分が患者を煽ってどうする、と和泉は気を引き締める。さっさと済ませよう。 「弥生くん、少し診せてね」  いい態勢だからと弥生をそのまま膝立ちにさせたまま、右手でパジャマのズボンと濡れた下着をずらす。医療用の手袋を着けて、背後から見下ろすようにしてその場所を探り、触診する。 「ん……」  敏感な場所に触れられて驚いたような声を弥生が漏らした。 「痛かった? ごめんな」  そう言うと、ふるふると首を横に振った。 「……だいじょ……ぶです」  指を入れて局部を確認する。 「辛いだろ。緊急抑制剤で症状を少し軽くしよう」  手早く診察を終えると、ナースに筋注の指示を出す。 「え……」  少し驚いたように弥生は潤んだ瞳を和泉に見せた。 「い……だいじょうぶ」 「大丈夫じゃないだろ」 「発情期がなくなるのは……いや」 「完全に押さえはしないから。君の身体の負担を少し楽にするだけだ」  そう説得するが、弥生は荒い息づかいを繰り返すだけ。和泉は弥生の無反応を了と受け取った。  彼を横に寝かせて、臀部を露出させ、その場所をアルコール綿で消毒した。  下生えのなかから、はち切れそうなほどに勃起した性器が視界に入った。 「いいかい。少し痛いけど、すぐ終わるからね」  そう宥めて、臀部に注射器を刺し、ゆっくり薬剤を注入する。弥生は毛布を握り、顔を覆っていた。 「はい終わったよ。少し楽になるから。そしたら、汗を拭いてもらおうな」  そう言って後処理をすべてナースに任せて、病室を出たのだった。  日下弥生という二十二歳のオメガの男性を担当するようになって三年がすぎた。彼は、四年前に番を事故で亡くした過去を持つ。当時妊娠中で、ショックで流産したという。以来、発情期が近くなると精神的に不安定になり、この病院の精神科に通ったあと、しばらくしてアルファ・オメガ科に定期的に通院してくるようになった。  本来ならば発情期を完全に押さえてしまうほうが、彼にとって楽なのかもしれないと思う。しかし、本人がそれを望んでいない。発情期の間だけ、亡くなった番に抱かれているような気分になるのだという。しかし、心は満たされても身体が辛い。そのアンバランスさに、徐々に精神も犯されてきているように思うのに、本人を説得できず、症状を軽減させる対処療法しかできないのがもどかしい。  番の契約とは罪深い。  教科書には番の契約はどちらかの死亡で解除されるものと書かれており、一般的にもそのように思われている。しかし、弥生のようなケースを見ていると、番と死別したオメガが心身ともに自由になり、次の番を見つけられるのかというと違うのだと実感する。彼の項には、未だに亡くなったアルファが付けた咬み跡が残っている。そんな単純な話ではないはずなのだ。  これから外来だ。急がねばと思うが、弥生のフェロモンに当てられたのか、それとも朝から朔耶といたせいか、少し身体が熱い。  いったん医局に戻り、ヒート抑制剤を多めに服用する。  そういえば、朔耶の香りが今朝は少し強かった。そろそろあの発情期から三ヶ月が経つ。  周期が近い。 「新堂さん、新堂朔耶さん、二番にお入りください」  マイクをオンにして午前の診療の最後の、その名前を呼んだ。  しばらくして、スーツ姿の朔耶が診察室に入ってきた。すると、朝よりも濃厚な朔耶の香りが漂ってくる。明らかに朝とは様子が違っていた。  ふらふらとどこか頼りない。朝は腫れぼったい目をしていたが、それでも溌剌としてたのに。 「一気に来たみたいだな……」  そう呟くと、朔耶は言葉に鳴らない声で応じた。 「す……みません」 「椅子に座るのが辛いなら、横になるか?」  そう問いかけると、朔耶が頷いたので、脇の診療台に寝かせた。ネクタイを寛げ、ワイシャツのボタンを上からいくつか外す。もうかなり発情症状が出てきている様子だった。 「……すみません。なんかあのあと体調がおかしくて……。早く病院に行けと、上司にも言われて……」  さすが長田だ。もう朔耶との間で話は付いているようで、今日の午後から一週間ほどの休暇を取得させられたとのこと。しかも、営業所からそのまま誠心医科大学病院に一人で営業車で行かせるのは心配だからと、丁度営業に向かう同僚が乗せてきてくれたという。  パートナーとしては本当に安心できる職場だ。  和泉も素早く計算する。今日の午後は一件オペが入っているが、それが終われば休みは取得できる。そろそろ朔耶の発情期に入りそうだったから、同僚との連携を欠かしていない。唯一心配なのは弥生であるが、他の同僚医師に任せても問題はないだろう。 「オレはこれから午後一件オペがあるから、休暇はそれを終えてからからだ」  こんな状態の朔耶をすぐに抱いてやることができないのは可哀想だが、どうしてオペだけは外せない。 「だから、これから緊急抑制剤を投与するよ。終わるまでオレのオフィスで待っててほしい。できるか?」  本当は先に和泉の自宅に帰り、安全な場所で待っていて欲しいと思うが、一人で帰すのは心配だった。  となると、院内で安全な場所といえば、自分のオフィスくらいだろう。特別室は塞がっている。数時間放置するのはあまりに可哀想なので、緊急抑制剤を投与することにした。数時間程度は発情が押さえられるだろう。  朔耶は頷いた。 「……だいじょうぶ…。暁さんには迷惑をかけない……」  そんな気持ちがいじらしい。 「……僕は平気。暁さんの仕事が終わるのをオフィスで待つから…」  朔耶にも緊急抑制剤の筋注を投与して、症状が落ち着いてきたのを見届けてから、オペ室に入った。  オペ自体はさほど難しい術式ではないため、二時間ほどで終了し、自分のオフィスに戻ってきたのは陽が傾き掛けた頃。  朔耶はオフィスのソファで、安らかな寝息を立てていた。薬が効いていると見えて、顔色も戻ってきていた。そういえば昨晩はまた仕事に追われてあまり寝られなかったようだから、せめて目が覚めるまで、このまま寝かせてやろう。  和泉は朔耶の前髪を掻き上げ、額に静かなキスを落とした。

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